でしたノート
ここ数か月、目覚めてから頭がちゃんと動き出すまで時間がかかるようになった。寝起きの頭はやけに重く、ボーッとした状態が1時間以上は続く。
その後、起きたばかりというのに再び睡魔が襲い、座ったまま目を閉じて数分経つと、不思議とスッキリした気分になっている。ようやく朝の活動が始められる感じだ。
早朝から外出するときなど誰に言い訳できるはずもなく、シャワーを浴びて強引に覚醒しているのだから、要は気の持ちようということかもしれない。
はたして最近のこの変化は、老化現象なのか、ダレているだけなのか。
使わぬ頭のトレーニングにしようと、毎日noteを更新している。現在進行中のプロジェクトの、備忘録の意味もある。
これといって大きな変化などない日常だから、何を書いたらいいか分からない日の方が多い。今まさに、そんな状態にある。
それでも続けるのは、一日でも休むと後が続かなくなる自分の性格をわかっているからだ。
まずはnoteのテキストを開き、なんでもいいから一行目を始めてみる。するとなぜかそれに続き、手が勝手に空白を埋め始めたりするから面白い。
なんだオレこんな事考えていたんかと、気づかされる経験もしばしばある。
元旦から始め、ひとまず1年を目標に毎日更新している。日記だと始めても三日坊主の自分が、よくも続くもんだと感心する。日常の中でルーティン化しているから、トレーニングという目的に充分適っているようだ。
ちなみに皆様の記事を拝読していて、noteにいろいろな機能があるのは理解ながら、知識は全く増えないままだ。
必要に迫られ引用文にするワザだけ覚えたが、YouTube動画はURLを貼るだけだし、文章作成だけならこのままでいいかと満足したまま、進歩がない。
話題は個人的な事に限定されていても、公開すれば目を通していただき、ご丁寧なコメントを寄せて頂く方までいらっしゃる。
第三者の目にさらされるという意識が生まれるのは、noteの効用と考える。貴重な時間を割いて僕の駄文を読んでいただくのであれば、何のお役にも立てぬと知りながら、共鳴し合える要素だけは探っていきたい。
実用的なハウツー・ネタではないため、自分の内側にないものは出しようがない。
そこで、現在進行形の話はそのままオープンにしづらいとしても、自分の中で時効と判断できる過去の出来事に関しては、ときに回想しその折々の心情について触れるようにしている。
「自分も同じです」などとコメントを頂くと、素直に嬉しい。
「オレは他人と違うんだ」などと主張したいわけじゃ決してないから、同時代性や似たような境遇からの共感はありがたい。
加えて最近は、異性からのフォローやコメントも増えた。女性による、自分とは全く異なる感性の記述に触れることで、とても刺激(勉強)になっている。
「連帯」などと書くと手あかのついた左翼用語のようだが、分断の進む世の中にあって、僅かながらであろうと繋がることの手ごたえは、常に感じていたい。
自分の文体にクセがあるのを、あらためて自覚している。
最初の内は、それも個性の内と気にもせず文章を連ねていった。続けていくに従い、今は表現にマンネリなものを感じている。
何も奇抜な表現をしたいわけじゃなく、心象風景がそのまま文面に現れてくれればいいのだが、語彙の少なさ・表現力のつたなさは如何ともしがたい。
それをカバーしようとちょっとでも技巧にこだわれば、自分の内面から離れた空疎な作文になってしまう。適正な表現からも、乖離していると感じることが多い。
いかに駄文とはいえ、読まれる方に多少は共鳴頂ける部分を残したいから、手持ちの限られた知識と能力を意識しながら、日々文章を磨いていくしかないだろう。
本来、作成した記事は一日置いて、客観的な視点をもって校正するのが理想だ。僕の場合ストックもなく、勢いで書いてそのまま公開しているから、おそらくバランスを欠いた不出来な仕上がりになっていると思う。
これもクセのひとつで、計画性をもって物事に取り組むという事が苦手である。
何事も思いついたら勢いだけで突っ走り、結果としていろいろ仕出かしてきた。ちなみに短距離走のタイプで、長距離になると息が切れやすい。
だからと過去に対する肯定も否定もなく、多少はお勉強して今があるとしか言えない。
なんて書いているうち、今日の(自分がノルマと課す)字数は消化したようだ。
毎日やっているとこれが大して苦にならなくなっているから、「継続は力なり」を改めて実感させられる。
イラスト Atelier hanami@はなのす
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