妄想公共曲
他人様に誇れるものなど(謙遜抜きに)持ち合わせていないが、あえて言うなら妄想力だけは、人並み以上あるかもしれない。
「妄想力」などと書けば、なにやら肯定的な能力のように受け取られそうだ。もちろんいい面もあるが、それだってその人次第だろう。
自分の身の程をわきまえず、思い込んだら必ず成功するとか、強く信じれば望みが叶うとか、そんなことはあり得ない。
それにそもそもの「妄想」の定義は、総じて否定的な内容ばかりだ。
僕にとっての「妄想」とは、制限のない自由な考え方を指す。 まだこの世の中で明確な形を成していないものや、ルールに捉われずイマジネーションを広げることが出来るものだ。 「想像」のように、過去の経験とか論理、世の中のルールをベースにしたものではない。
妄想や意識のレベルで成し得ることは、その人の精神に対する影響のみであり、物理的な変化を引き起こすわけではない。
一方で、その精神の変化のみに着目して、その範囲内で妄想を洗練させれば、「幸福感」という精神的変化を引き起こすことも可能になる。僕にとってはその感覚こそが、とても大事なのだ。
自分の過去を振り返り、いろいろな局面で「妄想力」が窮地を救ってくれた記憶がある。現実だけしか見られずにいたら、その重圧だけで押しつぶされていたかもしれない。「なんとかなる」のお気楽さをいつも支えてくれたのが、妄想する力だったと思う。
世間や業界の”常識”の枠にとらわれず行動した結果、周囲のみならず僕自身にとっても、期待を大きく超える成果の生まれたことがある。これは実力というより、物事を深く考えず突っ走ったら、たまたま突破出来てしまった事例だ。でもそれだって、成功体験の一つにはなる。
成功体験のある一方で、それ以上のしくじりも数知れない。ビジネスにあっても普段の人間関係においても、「妄想」は絶えず空回りすることの方が多かった。
こちらが良かれと「妄想」し、相手にとって期待以上のメリットを提供しようとしても、それが「余計なお世話」だったり、ときとして「悪意」に受け取られたりしたことも珍しくない。
「妄想」とは本来、過剰なものだからだ。
それでも変わらず、妄想を続けている。
この1年以上、ある事業を周囲の人たちに吹聴して回っていたら、その一部が実現する運びになった。妄想、恐るべしである。
今はある事情から具体的に記さないが、来年2月から公共に資する仕事を始めることが確定した。急ピッチでそのための準備にとりかからなければならない。
妄想することは得意でも、現実の対処が超苦手な僕は、今かなり混乱している。
現実を動かす「妄想」には、その妄想を引き出すための心の「余白」が不可欠だ。
壮大な願望やアイデアを引き出せたとしても、それが単なる妄想に留まっている限り、思考を具体的に動かすことはできないだろう。
妄想が生み出したビジョンを思考のエネルギーに変えるためには、理想とする状態が見えているだけでは足りない。理想と現実のあいだに横たわる「ギャップ」の認知が必要になる。
認知があって初めて、現実を変えようとするエネルギーが生まれる。これを「創造的緊張(Creative Tension)」と呼ぶそうだ。
創造的緊張を生み出すときに有効なのが、「問いかけ」という方法だ。
具体的な問題を起点として、その解決を目指す取り組みをするなら、「どうすれば……できるか?」(HOW−MIGHT−WE型)と問いかけることで「マイナスをゼロに引き上げようとする駆動力」が生まれる。
次に、妄想を起点にした問いかけをする時「もしも……ならどうなるか?」(WHAT−IF型)というかたちをとる。これが「ゼロからプラスに引き上げる駆動力」になる。
「その妄想を実現するには何が必要か?」ではなく、「妄想が実現したら何が起こるか?」と、さらなる未来に目を向けてみるのだ。
妄想はその実現可能性を考えた途端に、エネルギーを失っていく。今の僕が夜中に目を覚まし寝付けなくなってしまうのは、妄想と現実とのギャップをはっきり認知した状態だからだ。妄想から生まれた提案の実現性がはっきりしない間は、こんなことは起きなかった。
いま何より大切なのは、自分の内から湧き出てきた妄想の「熱量」をできるだけ冷まさないことだろう。寧ろより「熱く」するにはどうすればいいか、考えることだ。
今この時、どれほどの幸福感やワクワク感を持てるか、そのための仲間をどれだけ増やせるか。それが妄想から始まる事業のゴールを、大きく左右するはずだ。
眠れない夜は、音楽の力を借りることにする。
かつて「情熱の氷漬け」と評された、クレンペラー指揮する『幻想交響曲』でも聴いてみようか。
ますます寝れなくなるかもしれんが。
イラスト Atelier hanami@はなのす
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