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鷲のように

2010 年の厚生労働省ガイドラインでは、ひきこもりを次のように定義している。

様々な要因の結果として社会的参加(義務教育を含む就学、非常勤職を含む就労、家庭外での交遊など)を回避し、原則的には 6 カ月以上にわたって概ね家庭にとどまり続けている状態(他者と交わらない形での外出をしていてもよい)を指す現象概念である。なお、ひきこもりは原則として統合失調症あるいは陰性症状に基づくひきこもり状態とは一線を画した非精神病性の現象とするが、実際には確定診断がなされる前の統合失調症が含まれている可能性は低くないことに留意すべきである。

2003 年のガイドラインでは、ひきこもりを3つの側面から考えている。

1 心理的側面
「ひきこもる以前に、本人にとってはかなりのストレスがあり、それに耐えようと踏ん張っていたため、ひきこもると同時に大きな挫折感や疲労感をかかえ、回復が遅れてしまうことがあります」
「あるいは、ひきこもりという生活パターンを繰り返す中で、次第に人との交流の機会が減少し、他人に会う時の緊張感や不安感を考えて、また他者からの否定的な評価におびえて、社会に出て行くことがより困難になるような場合もあります」

2 生物学的側面
「ひきこもりという行動をとる人のなかには、生物学的要因が影響している比重が高くて、そのために、ひきこもりを余儀なくされている人々がいます。たとえば、統合失調症、うつ病、強迫性障害、パニック障害などの精神疾患にかかっている人々です」
「また、軽度の知的障害があったり学習障害や高機能広汎性発達障害などがあるのに、そのことが周囲に認識、理解されず、そのために生じる周囲との摩擦が本人のストレスになることがあります」

3 社会的側面
「たとえば就労や就学以外に選択肢を認めない環境では、いったんひきこもった人が再び社会参加をするのに、多くの困難があるでしょう」
「ひきこもってしまったら将来はない」とか「みんなと違うことをすることは良くない」といった価値観が優勢な場合には、ご家族も本人も、「悪いこと、不利なことをしている」といった認識になって、援助を求めることも出来ず、孤立しがちです。そのような場合は、本人や家族の回復への力が十分に発揮できにくいものです」
「また、気軽にこのような問題を相談できる適切な場所が身近にあるかないか、ということも長期化に影響をあたえている可能性があります。「ひきこもり」の状態からの回復は、なかなか個人の力では難しいときがあるからです。多様な価値観が尊重されるように社会のあり方をかえることで、困難を抱えながらも、生きやすくなっていくこともあるのです」

令和 3 年度生活困窮者自立支援制度人材養成研修
ひきこもりの実態と社会的背景・要因の理解
担当:川北稔(愛知教育大学)

昭和のある時期まで、世の現役世代には(アルバイト含む)学生と正社員、退職者しかいなかった。家庭には主婦というもう1本の柱があって、我が子の育成に注力することが出来た。
障害者や「ひきこもり」の人にも、社会のどこかに必ず居場所や受け皿がある。農業・農村も、その一つとして機能していた。

それが昭和の終りから平成、令和と時代が進むにつれ、社会からふるい落とされ、居場所を失ってしまう人たちが増加していく。

生産性のみで人を判断せず、社員を家族のように扱うのが、農耕型日本社会の伝統だった。それにとって代わり、実力第一主義・弱肉強食の狩猟型資本主義の世の中に移行するに従い、その変化についていけない人たちが「ひきこもり」になってしまった面がありはしないか。
社会のあり方が「ひきこもり」の数を変え、質を変えてしまったのかも知れない。

数名の若い引きこもりクン達と行動を共にしてつくづく感じるのは、「あぁ日本人だな」という一点である。
たまたまかもしれないが、話しをすればみんなよくしゃべる。そのかわり、こちらから口火を切らなければ無言のままでいる。それを引っ込み思案ととるか、謙虚さゆえととるかは相手次第だが、自己主張しないことそのものが、日本的と言える。

一緒に昼食をとると、食べる前にはきちんと手を合わせ、「いただきます」を忘れない。そういうことに全く頓着とんじゃくしない僕なんかより、よっぽど日本人としての所作をわきまえた人たちに思えてくる。

少し情緒的な見方になるが、他人との争いごとを好まず、つねに一歩下がったところに身を置く心優しき人間を「落ちこぼれ」と断じ、「ひきこもり」へと追いやってしまった社会構造の方にこそ、問題がある気がしてならない。

エリートと呼ばれる人々は、弱肉強食の受験戦争を勝ち抜き、大学卒業までトップクラスの成績を維持し続ける。そうした「秀才」が官僚になれば、そこでも更に熾烈しれつなイス取りゲームが待っている。
最後に残る一つのイスを目指し、途中敗れたものはおかしなエリート意識をそのままに、地方の知事に天下りしては権力の乱用を人生のご褒美ほうびとしたりもする。
味方の誰ひとりいなくなっても「オレは正しい」「辞職しない」を貫く傲岸ごうがんさは、「ひきこもり」の対極にあると言えるだろうし、それを人間としての「強さ」とは誰も思わないはずだ。

争い続け頂点を目指す人の存在を、否定する気はない。むしろその方面でのダイナミズムにも乏しく、誰もが小さくまとまろうとする傾向があるのが気がかりだ。
結果はどうあれ、既存の価値観をぶち壊す!くらい大口叩ける人物の出現があってもいい。本当に能力ある人ならば、ぜひ突出してもらいたいもんである。

一方で、争いは好まないがきちんとした居場所があれば、社会に貢献できて自ら生計を立てられる人たちがいる。
日本人のDNAに合わない狩猟民族型の社会から、徐々にではあっても旧来の農耕民族の世界観に回帰できれば、「ひきこもり」という現象は自ずと消えていくのではないか。ひとり勝ちでない、共存共栄の場所づくりを目指すのだ。

彼らと未来の第一歩を、踏み出してみたい。

イラスト Atelier hanami@はなのす

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