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今からのカラヤン

2023年11月30日。
ドイツのアーヘン市立劇場は、ホワイエにあった指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)の胸像を撤去したと発表。カラヤンとナチスとの繋がりに関する最新の調査結果に基づいての措置だという。
アーヘンの音楽総監督のポストに就くためナチス党に入党したとしていたカラヤンの生前の主張が虚偽で、就任前の1933年の時点で、既に党員になっていたことが判明したからだ。

カラヤンは1926年に、ザルツブルクの人文高等学校を卒業している。すでにこの段階において、ドイツ文化のユダヤ化について不平を述べていた。
カラヤン自身が全くこの問題について語らないので断定は出来ないが、少なくともナチスに対し、精神的・心情的な共鳴がなければ入党することはありえなかったのではないか。

自ら確かめることもなしに、一部プロパガンダを真に受けナチスのすべてを悪と断じたままでは、事の本質を見誤るかもしれない。
反ユダヤ思想が当時のドイツにおいてなぜおこり、民主的プロセスを踏んだうえでナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)という国家社会主義(巷間こうかん言われる極右民族主義ではなく、極左思想)が台頭したのか、戦後79年経った今こそ検証されるべき時だろう。

個人レベルの人間関係も世界規模の歴史も、本質は一緒だ。どちらかが100%正義で、一方が100%悪などということはあり得ない。例外があるとすれば少数民族に対する弾圧・民族浄化が現在進行形の、日本の隣国くらいだろうか。

カラヤンがナチスに入党したのは芸術上の必要に迫られたからで、ナチスについては何も知らず、関心もなかったと、多くの伝記は伝えている。
この言い訳は、ナチスに関与した者が戦後かならず使う弁解の言葉である。
カラヤンのように、知的で何事も綿密に計画して動く人物が、何も知らなかったと言われても眉唾物まゆつばものでしかない。
カラヤンはキャリアのスタートから仮面をかぶり、生涯それを貫いた。私生活においても、仕事においてもだ。

カラヤンの演奏で最も特徴的なのは、目を閉じて指揮する姿だ。これは指揮者としては非常に珍しい。なぜならアイコンタクトは、指揮者とオーケストラのコミュニケーションにとって、最も重要と考えられているからだ。

伝記作家のロジャー・ヴォーンによれば、「ここ(目を閉じること)に指揮の魅力的な側面がある。ルールはなく、ガイドラインがあるだけだ。結果が成功すれば、どんなに風変わりなアプローチも許容される」
首席フルート奏者を務めたジェームズ・ゴールウェイは、「彼はその魅力によって、(目を閉じたままで)望んだことのほとんどを達成した」と回想している。

目を閉じて指揮をするのは楽譜を暗記した結果であり、目を閉じていることで集中力が保たれたのだという説もある。常に自分が他者の目にどう映るかを意識していた、カラヤンらしい所作かもしれない。

それぞれ言い分ごもっともだが、演奏中でのオーケストラとのコンタクトを拒絶した側面も、ありはしないか。
カラヤンにとって音楽とは、楽員と「共につくるもの」ではなく、自らが頭に描く理想像を高性能な再生装置で表現することにあったからかもしれない。
さらに言うなら、決して悟られてはならない自らの内面を、口ほどにものを言う目を閉じることでシャットアウトしたという見方も、可能ではないか。

トスカニーニの独裁は、あくまで音楽に奉仕するための手段だった。「オーケストラのナポレオン」と呼ばれたメンゲルベルクがリハーサルに多くの時間を費やしたのも、同じ理由からだ。
カラヤンからは、同時代の大指揮者に共通する「音楽の使徒」としてのイメージが湧かない。彼の独裁はあくまで自身が、頂点に君臨するためにあった。

ウォルター・レッグ(イギリスのレコーディング・プロデューサー)は、戦後ナチ党員であったとして演奏を禁じられていたカラヤンのために、彼が1945年に創立したフィルハーモニア管弦楽団を提供する。

レッグによれば「彼(カラヤン)は私が知る限り、楽譜に印を付けたことがない数少ない指揮者の一人です。彼は、リラックスしたシャム猫のように、床に座って静かに楽譜を吸収します。長年にわたり、彼は体を完全にリラックスさせ、心が自由にやりたいことをできるようにする方法を学んできました」
それすらも、計算され尽くした演出の一つと思えてきてしまう。

カラヤンの音楽にはその高い完成度をもって、聴くつど圧倒される。彼の生前にわからなかった凄みが、齢をとるほどに理解できるようにもなってきた。
それを魅力と評していいものか判断がつきかねるが、ザッハトルテ(オーストリアを代表するチョコレートケーキで、濃厚なチョコレートとアプリコットジャムの酸味が特徴)にかすかにピリッと苦みを残すのが、カラヤンの常なる後味なのだ。それは刺激というより、不快な毒の感覚に近い。

その苦みをほとんど感じないのが、フィルハーモニア管時代のカラヤンである。
そこに浮かび上がるのは帝王の仮面をつけた人物ではなく、ひたすら音楽のため奉仕する一人の指揮者の姿だ。音楽は清流のごとく瑞々みずみずしく、そのまま聴き手の五臓六腑ごぞうろっぷに染み渡る。
もしかしたらマエストロはこの時代、ときに目を開き、楽団員に微笑んでいたかも知れない。

こういう記録があるからカラヤンは、どこまでいっても困った存在なのだ。


イラスト Atelier hanami@はなのす

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