禅語としての虎子
禅語というのは、執着を捨てるとか、心穏やかに生きる助けとなる言葉であり、陰陽の両面を意味を併せ持った言葉だと思います。
その中で
虎穴に入らずんば虎子を得ず〈不入虎穴争得虎子〉
意味 虎が住むほら穴に入らなければ、その中にいる虎の子を捕獲することはできない。
あえて身の危険を冒さなければ、大きな成果を挙げることはできないというたとえ。
には、何か違和感を感じました。
大きな成果を挙げることに執着しているし、”争”という語も入っているので心穏やかとはとても言えません。
作家いしいしんじさんが、色々な禅語の紹介をしているのですが、いしいさんは自分の経験談として、会社勤めをしているうちに息苦しさを感じて、会社を辞めて新しい生活に飛び込んだことを「虎穴」に喩えています。
いしいしんじの「禅語」 #86〈不入虎穴争得虎子〉より一部抜粋
翌月、会社を辞めました。
その朝デパートで買ったスーツを、
はじめて着ていきました。
無職で、収入なし。
この先どうなるかなんにも当てはありませんでしたが、
気分は爽快でした。
挨拶をすませ、陽光があふれる春の町に飛びだしました。
はじめて入る「虎穴」は、青い空にふちどられ、
ぼくの前に広々とひろがっていました。
仕事では成果を挙げていたにも関わらず、
なにか、妙に狭い場所におしこめられている、息苦しさを感じたのです。
この文章を読んでいるうちに、いしいさんの例とは異なるのですが、
たとえ虎子を争い得たとしても、それによって失われるものがある。
というのが、禅語としてのこの言葉の解釈としては相応しいのではないかと思いました。
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