2024年4月10日(水)GRアワー深掘り🌏薮内正幸美術館館長 薮内竜太氏に伺う「動物画家 薮内正幸の誕生・仕事・メッセージ」119
ゲスト:薮内正幸さん、モデレーター:Yoshie Sakagamiさん、サブモデレーター:小嶋十糸子さん、小林妙高さん、Miyako Nakamuraさん、議事録:沼尻淑子
【父、薮内正幸の生い立ちについて】
父、薮内正幸は1940年大阪生まれ。『冒険者たち』、学校の教科書や『広辞苑』などの挿絵、生き物を描いてきた絵描き。絵は習ったことがなく独学。写真を見なくてもどんなポーズでも描けた。父方の祖父は動物好き、母方の祖父は日本画を描いていた。小さい頃に天王寺動物園に連れて行ってもらった時、カメラが手に出来ない時代だった。見てきたもの、感動したものを思い出して描くしかなかった。描けないのはちゃんと観察していないからだ、と思った。朝一番、ライオンの檻の前に行って見続けて閉園時間に帰る、丸一日1つの動物を観察していた。正幸の執念だった。家に帰って描くと描けた。頭の中がライオンに満たされていた。ライオンのように家の中を四つ足で歩く。母親からお菓子が出されるとライオンのように四つ足で歩いて口にくわえて、引き裂いて食べていた。動物の真似をしていた。祖父はそんな正幸を見て、正幸の首に紐をつけて家の中を散歩をしていた。ライオンや狼になりきっていた。ちょっと知ればどんどん知りたい知識欲があった。知識に飢えていた。
【動物学者との手紙のエピソード】
小学3年生の時に鳥類学者の高島春雄の小学高学年向けの本を読んで感想の手紙を書いて送った。返信に、「鳥の専門家ですが、あなたが質問してきたことに答えられません。ごめんなさい」と書かれてきた。高校生の正幸は、イリオモテヤマネコの正式認定をした動物学者の今泉吉典さんに「あの本の中でサイの数は何頭と書かれているのですが、他の本では何頭と書かれています」と手紙を書いて送ったら、「あなたの言う通りです。最近はそのような研究があるみたいなので、また何かありましたら教えてください」と返信があった。子どもに対してそのような回答が出来る大人は少ない。高校3年の2月に今泉先生からお手紙をもらい、「世界一詳しい哺乳類図鑑の挿絵を担当してみないか?」と言われた。福音館編集長の松居直さんが挿絵画家を探していて、「本気でやるなら全面的に責任持ってやります」と言われた。
【福音館に入社】
正幸は高校卒業と同時に福音館に入社して東京の松居さんの家にお世話になった。「世界一の動物画家になるために世界一の動物図鑑を勉強してきなさい」と言われて国立科学博物館に毎日通った。今泉先生に「とにかく徹底して動物の骨格を覚えろ」と言われた。ダビンチも人間の解剖を研究していた。正幸が持っているもの全て、余白に動物の絵が描かれていた。今泉先生に「骨を描け」と言われたので、2万、3万点描いていた。勤務時間は資料の模写をし続けた。修行、下積みの時間だった。晩年に「あの2年間は楽しかった」と正幸は言っている。「描き続ける。やり続けたことが楽しかった」と言う。やり続けて、ようやく出版という所で、福音館の諸般の事情で出版企画が流れてしまった。動物図鑑の挿絵に5年かけた。今泉先生からやり直し、ダメ出しの繰り返しで1年で1冊仕上げた。最初から最後までじっくり見られた後にまたやり直しだった。「1年かけるとタッチが変わってしまっている」と言われた。福音館は『エルマーの冒険』に力を入れていた。正幸は「この5年間は何だったんだ」と落ち込んだ。『エルマーの冒険』を担当していたのが、とだきょうこ、自分の妻が担当していたのが釈然としなかった。10年以上挿絵を描いていれば、その道しかなかった。
1965年『こどものとも』、翌年に『どうぶつのおやこ』、1969年『かがくのとも』創刊号を発刊。正幸は学術的な内部構造まで熟知して、学術的な動物も描けた。「学者が見ても納得のいく絵を子供に。子どもには本物を見せなければならない。騙せるのは先入観を持った大人だけ」という福音館の考えに合っていた。他の出版社からも問い合わせがあり、福音館以外の挿絵の仕事も請け負った。家に帰ってから描いていた。体力的にしんどくなって31歳で福音館を退職してフリーイラストレーターになった。『冒険者シリーズ』、サントリーの自然保護を訴えるキャンペーンの絵、生涯動物画家だった。
【1つのことをやり続ける大切さ】
絵描きになろうと思ってない。正幸は1つのことをやり続けた。ありえない数の絵を描いている。物を食べながらも絵を描いていたというエピソードもある。仕事に行き詰まったら、好きな鷲鷹の絵を描いて、また仕事をした。絵を描くことに沢山の時間を費やした。やり続けることはなかなか出来ない。天才的に動物が好きだった。大リーグのイチローは360日以上野球の練習をしている。明確な目的意識を持ち続けている。野球をすることが天才的に好きだった。それなりのスキルを身につけた。高橋尚子さん、野口みづきさんも普通の人以上にやり続けた。好きこそ物の上手なれ。薮内正幸もそうだった。親からも「いつまでそんなことやってるの?」と言われなかった。ただ子供が好きなことをやり続けさせられる環境だった。学校の先生も正幸に図鑑を与えた方が生き生きしているとわかっていた。常に子どもに対して大人が一生懸命であった。正幸は「運が良かった」と言っている。今はなんでも簡単に検索できる時代だが、人と人が向き合って手作業で進めていく必要があるのではと思う。山梨市北杜市で原画1万点以上、展示替えしながら作品を展示している。今年は開館20周年で、1959年福音館に入社した時のピカソの模写などもある。
【薮内正幸美術館を建てられた経緯】
東京でサラリーマンをしていたが、母の戸田が個人美術館、「面白そう。やってみたら楽しそう」といい始めた。個人美術館経営がやっていけるはずがないと思っていた。戸田は病気で医者から「物事、半年のスパンで考えろ」と言われていた。美術館が出来た2年後に死去した。親が作った美術館館長を引き継いで学芸員を取った。親がやっていることに興味がなく何をしていたか知らなかった。講演記録の文字起こしや、編集者の方から聞き込みをしたりした。
坂上よしえさん:お父様として、どんな方でしたか?
薮内竜太さん:好きなことをやり続けた人。「予備校行って、浪人してまで大学に行く必要あるのか?」と言われた。年の離れた趣味仲間。親としての威厳は感じられなかったけれど趣味の話が合った。
山梨の薮内正幸美術館にぜひお越し頂けたら。箱根でも個展を開催中です。
ホームページ: https://yabuuchi-art.jp
音声はこちら💁♀️
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