1932年/京都:モダン京都の断面か(001)

桑原静雄、のちの竹之内静雄が、三高に入学したのは、1932年(昭和7年)の4月であった。(84)
入学式などがいつあったのか、まだ調べていない。

桑原は、寮に入った。「自由寮」である。そこで野間宏と出会う。(329)
1932年5月17日、野間を介して知り合いになっていた富士正晴が、二人を、竹内勝太郎の自宅へ連れていく。
竹内の自宅は、浄土寺南田町173番地であったという。
地図で調べると、法然院のすぐ西、すぐ下である。また、戦後、1978年から2003年まで、「アトリエ・ド・カフェ」があった場所の道を挟んで北側に当たる。「アトリエ・ド・カフェ」は渡辺千萬子(1930-20190419)が経営していた。渡辺千萬子は、谷崎の晩年の傑作『瘋癲老人日記』のヒロイン颯子のモデルといわれている女性だ。

桑原と野間の初期の関係には谷崎も少しつながる。野間は桑原つまり竹之内についてこう書いている。

「私は自分が一緒に文学をすすめることができると思う人間を、寮のなかにすぐ見つけた。私が見いだした竹之内静雄は、その手のなかにもっているスタンダール、トルストイの散文と、哲学によって私を谷崎から引き離した。」(孫引き(85):『読売新聞』1962年3月20日)

つまりこうだろう。野間は、三高に入り桑原と会うまでは、谷崎潤一郎を読んでいた。惹かれていたのかもしれない。それが、桑畑により、仏文と露文と哲学で、谷崎から切断された。

谷崎のたとえば1931年から1932年の初めにかけての創作状況を一応見ておこう。
1931年初めには、雑誌『中央公論』1月号と2月号に『吉野葛』が連載されている。
1931年4月には、改造社から『卍』が単行本として出版されている。(『卍』は雑誌『改造』に1928年3月号から、1930年4月号まで、断続的に連載された。舞台は大阪である。)
1932年2月。『盲目物語』を中央公論社から刊行している。
小林秀雄が、その年(1933年)の最高傑作とした「春琴抄」は、京都高尾で執筆され、1933年6月号の『中央公論』に発表された。野間、富士、桑原が、竹内勝太郎と遭遇してから一年後のことだった。(ここは、『谷崎潤一郎必携』を参考としている。)

実は、日本の政治軍事状況も、このころ大きく動いていた。
1931年9月18日、板垣征四郎、石原莞爾などによって、満州の武力制圧を目指した柳条湖事件が起きた。いわゆる満州事変のはじまりである。
野間や桑原の三高入学よりも一ヵ月前(受験はいつだったのだろうか、要調査である)、満州国の建国が宣言された。
富士が、野間と桑原を竹内宅へ同伴する直前(2日前のことだ)、5月15日、5・15事件が起きた。

竹之内によれば、5月17日の竹内訪問以降、竹内と竹之内ら3人との交流は深化して行く。

「この年、夏休みに何かものを書いてくるように、私たちは竹内さんから求められ、それぞれの作品をもとにして、ガリ版の同人雑誌『三人』ができた。昭和七年十月のことであった。…」(86‐87)

同じころ、1932年3月に京都帝国大学医学部を卒業して、4月から小児科医局の無給副手となった松田道雄は、のちに(1971年)、この年の文化運動についてこう回顧記述している。

「昭和七年は戦前の左翼の文化運動のいちばんさかんだった年だ。略称コップの日本プロレタリア文化聯盟…の傘下に日本プロレタリア作家同盟…、日本プロレタリア演劇同盟…、プロレタリア科学研究所…などの団体が結集して定期的に機関誌をだしはじめた。
 五月からは野呂栄太郎、山田盛太郎、大塚金之助らの編集で「日本資本主義発達史講座」がではじめた。」(『私の読んだ本』94)

1932年5月から出た「講座」は、松田に対しては、当時の日本社会を理解する地図を与えた。

「…日本の農村は半封建的な経済構造を残し、そのうえにいまの政治権力がたっているという説は、身のまわりの道徳や大学の人間関係の古さにうんざりしていたから、実に容易にうけいれられた。」(95)

しかし、こういう構造の問題が、富士、野間、竹之内の視界にあったのではなさそうだ。ただ野間の場合、やがて左傾化していくのであるから(頁不明)、「講座」へも接近していったであろう。

というわけで、1932に年の京都では、こういうことも生じていたのである。いまからの回顧的な再構成ではあるが。


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