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人生の分岐点

おそらく、どなたにもあらゆる年代で自分が選ばなければならない人生の選択があると思います。

10代であれば、どこの高校にいこうか、大学にいこうか、専門学校にいこうか、就職しようかなどなど。
いずれにしても、他者の助言はあるものの決断したのは自分自身だと思います。

私は20代の頃、転職を繰り返したので、『もしあの会社にまだいたとしたら、人生が変わったのかなぁ』と思うことが多々あります。
教材の営業から始まって、旅行の添乗員、塾の講師、産業ロボットの製造などなど。畑違いの仕事をして現在に至ります。

妻と出会ったのが、最初の営業職を辞めた後に物流倉庫でアルバイトをしながら職探ししている時でした。

もし、最初の会社を辞めていなかったら妻とは出会えてません。ちなみに、私の実家と妻の実家は同じ地区で、直線距離にして1キロ。車で2分の距離だったのです。

アルバイト先で出会って、初めてデートをした時に住所を知ったのですが、何か運命のようなものを感じて結婚し、2人の子供に恵まれて20年経過しました。

このように、一つの決断が、人生の直線を歪ませて方角を変えることはよくあることです。

私の大学時代の仲間は宮崎の実家にバイクで帰省する際に事故にあい帰らね人となりました。
おそらく、あの大学に合格していなければ死ぬことはなかったでしょう。

もし、神様が定めた運命なるものが定まっているのなら、抗う術はありません。
しかし、私たちはそんなものは信用していません。信用したら怖くて生きていられません。

だからこそ、人生の分岐点にさしかかった時に、未來への想像をふくらませて決断する必要があると思います。

いや、しかし私の友人のように特に決断せずとも、事故や病気で若い年齢で亡くなる人もいます。
このような場合に神様が定めた運命を感じるのでしょう。事故の場合、その場所にわずか1秒早く行くか、遅く行くかで事故に会わなかったはずです。

このように考えると今生きている私たちは、『魔の1秒』を偶然避けながら生き続けた可能性もあります。
例えば、最近でもおじいちゃん、おばあちゃんが運転する車が暴走して人をはねるという事故はよく見聞きします。

しかしながら、ほとんどの方は事故に会わないように気をつけていますし、健康にも気を使っているから『死ぬ運命』は
努力的に回避していますね。

とは言え、人間は100%死にます。年をとって、80、90歳まで生きて死んだならあきらめもつくかもしれませんが、10、20歳で死ぬのは、本人はもちろん、遺族もたまりませんね。

有限である『生きる時間』を私たちは、できるだけ満足できる時間に変換して生きていると思います。

また、人生の選択を決断しても、それが正しいのか誤っているのかなどわかりません。

例えば、会社を辞めて、お店や会社を立ち上げたとしても成功するか失敗するか、など誰にもわかりません。

ただ、独立することを夢としていた人にとっては、仮に失敗したとしても、『やらずに悔やむより、やってみて悔やむ』という考え方で、やることに意義があると思っているでしょう。

マザーテレサは次のようなことを言っています。
『神様は私たちに成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦してほしいと願っているだけよ』

私たちの幸福感は成功することを、第一に考えているふしがあります。
それは、成功すればご褒美があるからです。ご褒美がない努力にモチベーションは上がらないですからね。

しかし、現実的な話ですけど、何事も競争相手が多いと成功する確率は下がっていきます。

たとえ、人生の分岐点にさしかかったと思ったとしても、今持っている能力で勝負するしかないのだから、仮に失敗しても、悔やむより、挑戦した現実に満足した方がいい、とマザーテレサは言っているのでしょう。




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