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日本人について

外国、特に英語圏の国々の人が日本に来てまず驚くのはやはり日本語の難解さらしいです。
英語には尊敬語、丁寧語というものがなく、目上の人と話す時は当然タメ口です。言語がそうなので自然と平等意識が芽生えたのでしょう。
欧米人はまず、この言語によるタテ社会に戸惑うのです。ヨコ社会の欧米人がタテ社会の日本人の言語と言うより文化に戸惑うのです。
さて、このタテ社会的な日本人気質はいつから生まれたのでしょうか。歴史学者によると、聖徳太子の時代からだと言う人もいます。十七条の憲法の第一条『和を以て尊しとなす』の一文がきいているそうです。
私はいつ頃からという時間的なことよりも、島国という閉鎖的な空間が現代の日本人を作っていると思っています。もちろんグローバル化した現代に至っては欧米文化がかなり流入しました。
縄文時代の頃の日本の人口は25万人。一つの地方に数千人くらいしかいなかったそうです。鎌倉時代くらいから一気に増えて800万人。江戸時代でようやく3000万人。明治時代は4000万人です。
国が自給自足できる限界は3000万人だそうです。ということは、江戸時代が外国とつきあう必用がなかったギリギリの時代ということになります。
幕末の動乱は江戸幕府の意に反して、外国と無理矢理通商させられることに始まります。
ペリーの来航です。この時をもって、幕末という時代区分が始まります。
閉鎖的な社会がくずれ始める瞬間です。しかし、それまでも、中国、朝鮮、オランダとは長崎を開港しておつきあいしていたのですが、限定的であったため、日本には日本人しかいなかったのです。
そういう事情により単一民族になることで、『公意識』が高まり少数の集団という数的利点も手伝って一定の秩序が生まれたのです。欧米では多民族のるつぼです。宗教や考え方の違いから戦争が絶えませんでした。
日本では島国だけあって国境がない分、他国の文物が入りにくいデメリットはありましたが、侵略されにくいという大きなメリットが地政学上あったのです。
それでも、鎌倉時代にはモンゴル人が攻めてくる元寇が二度ありましたが、なにぶん、船で攻めてくる相手には地上から大量の弓を放つなど、戦略的優位性と神風と称する風雨の力もあり撃退しました。
しかし、時代も幕末になると、黒船の脅威に簡単に屈服することになります。それはお隣の大国清がアヘン戦争によりイギリスの植民地になっていることを幕府や有力な藩は知っていたことにより、戦うことの無意味さを知っていたからです。
物質文明の脅威には、長く閉鎖的社会を維持してきた徳川幕府では抗えなかったのです。
しかし、長らく続いた島国閉鎖社会によって現代の日本人の独自の文化と気質を作ったと言っても過言ではないでしょう。いくら島国と言っても邪馬台国の時代から、中国、朝鮮からは文物は入ってきていたので、日本文化の全てがオリジナルではありません。
聖徳太子の時代には仏教が伝来しました。もともと神教しかなかった日本に仏教を取り入れようと決断したのは聖徳太子です。
宗教の問題は複雑です。しかも、まだ科学が発達していなかった時代では、天災は本当に神の仕業と信じたのです。だから日本では天皇を神と崇める神教が信じられてきました。
このように閉鎖的社会では、独自の文化が育ちやすいのでしょう。
現代社会ではグローバル社会からはのがれられない程人口が増えました。人口が増えたことで時代の旋回スピードが一気に速くなりました。数人でやっていた作業を数十人、数百人ですれば時間は一気に短縮されます。そうして余った時間でさらに別の作業ができるのです。
時代のスピードが上がったのはイギリスの産業革命からだと言われています。要するに増えた人口で多くの知恵と人材を獲得した人類は、黒船という蒸気船というハイスピードの船で世界中を移動できるようになったのです。
鎖国をしていた徳川幕府はさぞ驚いたことでしょう。
自分たちの国が外国が侵略されるかもしれない、という危機感が、当時の若者の心に火をつけたのでしょう。坂本竜馬、高杉晋作、西郷隆盛を筆頭とする幕末の志士は一致団結しました。このあたりも日本人気質の特徴と言えるでしょう。
現代でも同じような光景を目にします。ラグビーやバスケットなどの国内リーグでは見向きもしないのに、国際大会には熱狂します。サッカーの国内リーグとワールドカップの熱狂ぶりにも雲泥の差があります。
異民族との戦いには目の色が変わり、一枚岩になる力がある国民性の原点も、地理的閉鎖社会が関係しているような気がします。

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