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さらに今更欅坂~「僕たちの嘘と真実」僕なりの考察~

先のnoteでは、これまでの僕の坂登りの歩みを書いてきたわけだけれど、ここでは、そんな僕が映画「僕たちの嘘と真実」を見て感じたことを考察(あくまでも)として書きたい。ちなみに先のnoteはこちらなのでぜひこちらから読んでください。

まずこの映画なんだけれど、公開を知ったのは本当に最近で、過去の欅坂を知られる貴重な機会として、公開直後の9/6(日)に見に行った。

僕が2018年1月に乃木坂に興味を持ったとき、非常に役に立ったのが「乃木坂46物語」という書籍だった。週刊プレイボーイの連載をまとめた本だけれど、途中から興味を持った人にとって過去を知りたい、というときはうってつけだった。欅坂に興味を持った時も同様の書籍を探したけれどどうやらなさそうだったので、今までの欅坂を一気に復習できる、という点でこの映画はありがたかった。

ここから先は映画のネタバレになるのでまだ見てないよという人がいれば見ないでほしいけれど、たぶんここに来た人はそんな人はいないだろう(公開からだいぶたっているので)。

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映画を見て感じたことはいろいろあった。でもやっぱり大きいのはまずこれだ。

①平手さん───自身と周辺───の移り変わり

最初の頃は笑顔でカメラに収まっていた彼女だったが、だんだん笑顔も消え、かつ、カメラに向かって話すことも減り、映し出されるのは一人ぼっちの背中ばかりになっていく。映画が進むにつれて、彼女の周りにいるのはメンバーではなくスタッフばかりになっていったのが印象的だった。

突出した個が、組織にうまく収まらないようになっていき、孤高になっていく、というのはわりとありがちな話だと思う。僕は突出した個でも何でもないけれど、組織(会社)に背を向けて孤独になっていく経験もしたことがあるので(結果転職することになったんだけど)、どこか「なるほどな…」と思って見ていた部分もあった。

でも。平手さんが孤立していくのを止めることは本当にできなかったんだろうか、と思う。そもそも平手さんが突出したのか、それとも誰か(いわゆる大人)が突出させたのか。そこが根本的な問題だと思う。平手さんが背を向けたのではなく、背を向けざるを得ない状況を作り出したのではないだろうか。

───誰が?

これに関しては誰が、というわけではないと思う。秋元さんが平手さんをかわいがっていたからとかそういう記事も目にしたけれど、ゴシップ誌類(たが)いの報道にいちいち反応する必要もない。

運営、メンバー…関わる存在のいろんなほんの小さな綻びが広がっていった、そんな感じではないだろうか。どんなに強いスポーツチームだっていつかはその栄華は終わるし、そういうのはいろんなものの綻びによってもたらされると僕は思う。

メンバーだって、やっぱりてちがいなければ、と思っていた部分はあっただろうし(だから映画の中でも、平手さんが急遽不在になって、いないからといって何にもできないグループだと言われるのは悔しい、と運営が発言するシーンがある)、平手さんが突出していたけれど不在になったら「これはチャンスだ!自分がその地位を目指そう」なんてメンバーもいなかったと思う。いや、いたのかもしれないけれど、やっぱり自分がそのポジションに収まるのは難しいと思ったのかもしれない。

曲によって代理センターを立てるという時期があったけれど、小池美波さんは「二人セゾン」は私には自信がない、といって振付のTAKAHIROさんから、なぜあなたがいいと思ったか、と理由をやさしく説明されるシーンがあった。

平手さんが不在になったからといってその座を奪い取ろう、なんてメンバーもいなかったわけで、(映画の中でも、芸能界でよく言われる、足を踏んづけるとかそういうメンバーはいないというセリフが誰かからあった)それが欅坂の良さだったのかなと思う。

でも、もしかしたら平手さんにとっては、自分にとって変わるメンバーが出てきてほしかったのかもしれない。これは何とも言えない。でも、とにかく、そういうメンバー間のいろいろな考えがどこか噛み合わなくなっていったのかなと思った。噛み合わせられる大人もいなかったのかなと思ったし、噛み合わせようがなかったのかもしれない。

そこは見ていてちょっとつらかった。

一番印象に残ったのは、東京ドームのリハーサルだったか何か忘れたが、メンバーが椅子に座って何かを待っているときに、平手さんはその輪に加わるのを避けるように端に地べたに座っていたけれど、誰かが椅子を差し出して、でも断るシーンだった。輪に加わらない平手さん、それを知って誰も声をかけないメンバー、でも一人だけ椅子を差し出す…

メンバーだって別に無視しているわけではなく、放っておくのも愛情だったのだろうが、でも、どこか無邪気に椅子を差し出すメンバー(後で教えてくれた知り合いによると田村保乃さんだそうです。二期生だろうなと思っていただけに納得だった)が印象的だった。

僕にはなんかそれはささやかな救いに見えた。

②欅坂終演の分岐点となった9thシングル

映画で初めて知ったんだけど、9thシングルでは初めて選抜制が導入された。今迄は一期生が出ていたけれど二期生にもチャンスをということで、競争原理を導入したんだろうなと僕は思った。

これによって外されたメンバーも当然いて、控室で泣いていたメンバーもいたわけだが、競争原理を持ち込んだことが、欅坂が活動を終了する(終焉ではなく終演)ことになった一つの要因なのではと思った。

あと、この9thシングルのMV撮影の様子が映画では紹介されていたけれど、監督が「女子会の雰囲気で~」と言っていたのが印象的だった。8thシングルは「黒い羊」だったことを考えれば大きな変更だ。

だが、「黒い羊」の次のシングルとしては世界観の大きな変更だし、個人的には平手さんには受け入れられないというか、その世界を自分に取り込むことができなかったのではないだろうか。極端に言えばサスペンスのドラマに出た後にコメディータッチのドラマに出るようなものだろうか。

そう考えると当時発表されていたこの理由も今にして思えば頷ける気がする。

欅坂に内包されていたさまざまな課題がこの9thシングルで表面化したという感じだったのかな…

③TAKAHIROさんという大人

欅坂という作品が好きだった僕にとって、振り付けを手掛けるTAKAHIROさんが登場したのはうれしかった。しかも、インタビュアーが「大人って何でしょう」という極めて的確な問いを投げかけていたのが印象的だった。45歳の僕は完全に大人の部類だし、これまでのブログでも書いてきたけれど、欅坂に関わる大人がなんとかできなかったのだろうか…と思うことも多かったからだ。

その問いにTAKAHIROさんが何と答えたのかは書かないけれど、僕の考える大人像とだいたい一緒だった。

ただ、TAKAHIROさんが語った欅坂とは、というのがものすごく印象的だった。それは「背負い人」。確かに、いろんな人たちが持つ感情とかを欅坂は一身に背負っていたんだなと思った。自分自身を欅坂の世界に重ね合わせる人も多かっただろう。あの香港の活動家の周庭さんも逮捕時に「不協和音」が頭の中に思い浮かんだと言っていたけれどまさにそうで、もっと言えば彼女たちはその思いも背負っていたともいえる。

ただ、大人が出るのならTAKAHIROさんだけでなく欅坂のプロデューサー(秋元さんではなくて現場レベルの人)の人も出るべきだったと僕は思う。欅坂がこうなっていったことについて、彼の口から聞いてみたかった気もするが、聞いたところで何とも思わないかもしれない。ハナから真実ではなく嘘だと思ってしまうかもしれない。

④渋谷(セゾン)という街と欅坂の対比

元々欅坂は「渋谷川」とか「渋谷からPARCOが消えた日」など、渋谷が舞台の曲が多かった。欅坂は六本木なのになぜ渋谷なのか。僕にはわからない。

ただ、まあデビュー曲の「サイレントマジョリティー」のロケ地が渋谷だったということもあるんだろうけれど、あそこは東急東横線渋谷駅跡地という、今も続く渋谷の一大再開発のスタート地点と言っても過言ではないわけで、欅坂も渋谷の街と同じように大きく発展していこうという思いがあったのかもしれない。

思えば渋谷というのは不思議な街だ。若者の街、ではあるんだけれど、多文化の街でもある。一見、109をはじめとした東急の街という印象が強いかもしれないけれど、実は西武百貨店やPARCOといったセゾングループも渋谷という街の形成には欠かせなかったわけで。渋谷PARCOの曲があったり、ストレートに「二人セゾン」という曲があったり、もしかしたらセゾングループのカルチャーに傾倒していたのかなとも思う。

最近の若い人にはセゾングループってなんのこっちゃと思うかもしれないけれど、簡単に言えば無印良品とJ-WAVEを作ったグループだ。

映画の中でのインタビューはどれも渋谷で行われていたし(専門学校らしき場所もあったけれどあれもたぶん渋谷だろう)、菅井さんをはじめ一部のメンバーのインタビューは渋谷の街を見下ろす場所で行われていて、しかもそこに垣間見える渋谷は当時から生まれ変わっていて、その対比も印象的だった。一方で、あの再開発の場所から同じくスタートしたのに、街はまだまだ発展し続けて未来がある一方、欅坂は未来がない、という対比も残酷ではあったが。

⑤抱いていた不気味さが表れていた「黒い羊」撮影後

前のブログで、僕は欅坂には不気味さがあると書いたけど、「黒い羊」の撮影終了後のシーンがまさにそうだった。ノンストップでカメラを回し続けて一曲を収録するというこのMVはその世界観といい本当にすごいんだけれど、

その撮影が終わって、監督が「はいカットー!」と言って撮影が終了し、メンバーたちが御礼を言った後に、立ち上がれない平手さんの元にみんなが駆け寄って涙ながらに声をかけているシーン。僕はこれははっきり言って気持ち悪かった。5分近くのノンストップの渾身の演技で立ち上がれず監督に御礼が言えない平手さんは仕方がないにしても、そこに一人を除く全メンバーが涙ながらに取り囲むシーンは、異常だった。

でも、そこに欅坂の現状が如実になっていた気もする。平手さんが完全に突出した個になっていて、メンバーたちは泣いて駆け寄って言葉をかけることしかできない。例えるならメンバーの代わりに人質になって命を落とした人、そんな感じだろうか。

なんで彼女一人がそんな目に合わなければならないんだろう。
他のメンバーは泣き叫んで駆け寄ることしかできないのだろうか。

一方で、その輪に加わらず呆然と立ち尽くしているメンバーが一人だけいた。どこか、僕のようにそれを異常だと思う人の象徴というか。もっと言えば仲間というか。後でそのメンバーは鈴本美愉というメンバーだったとこのブログで知った。そのメンバーは後に卒業したというのは今知ったけれど、納得だ。あのシーンが引き金になったのではないだろうか。

と、ここまでが映画の感想だ。


そして欅坂は10月のライブを持って活動に終止符を打つことになった。

僕個人としては、それほど平手友梨奈あっての欅坂、という感じではなかったので(前のブログの通りそんなに長いこと見ていなかったので)、彼女がいなくなった後の欅坂をとても楽しみにしていただけに残念だったんだけれど(もう欅坂という作品が見られなくなるし)、平手友梨奈という君主のいた専制国から共和国への移行も見てみたかったのだが

一方で、この映画を見た後だと、彼女がいなくなった後の欅坂、を築き上げる自信がメンバーたちになかったのかもしれないなと思った。自信がないのもあるし、これまで欅坂を築き上げた平手さんへのメンバーのオマージュという気もする。

本当は、活動休止という判断に至る過程を大人やメンバーたちのやりとりなどで映画で見たかった気もするが、緊急事態宣言の出ている中で決めたことだったかもしれないし、大人とメンバー全員が一堂に顔を合わせて、という状況ではなかったのだろう。

映画を見て、こういう結末(活動休止)になったのは致し方なかったんだろうなあと思った。大人がもう少しできなかったのかという思いはあるけれど。もう少しできたところでメンバーの思いは結局変わらなかったのかもしれない。

ただ。僕が無観客配信ライブのダイジェストを見て気づいて、そして今回の映画で改めて思ったことなんだけれど、それは、

菅井友香というキャプテンの存在

だった。

あの無観客配信ライブでの、活動休止と再出発を発表するシーンで、僕は初めてこの子が菅井友香というメンバー&キャプテンなんだと知った。YouTubeでの欅共和国配信の時に最後にスマホを手に笑っていたのも彼女だったんだとそれで気づいた。前のブログでも書いたけれど、顔と名前が一致していたメンバーは平手さんと土生さん、そして長濱ねるさんくらいだったからだ。

そして、何よりあのスピーチ…こういっちゃなんだけれどものすごく鼻息荒く話しているんだけれど、それはどこか、あふれそうな感情を必死で押しとどめているように感じた。

───絶対泣いちゃいけない───

あんなスピーチを言わせるべきではないし、彼女はそれだけめちゃくちゃいろんなものを背負っていたんだなと思った。なので僕は「誰がその鐘を鳴らすのか」グッズ発売に合わせて、配信ライブのグッズである、彼女のマフラータオルを買った。

よくよく考えたら僕は、メンバーに明るくない中で「世界には愛しかない」の「予測できない未来も嫌いじゃない」の明るい声が好きだったし、「青空が違う」の曲の世界も好きだった。全部、つながった(笑)。

でも、どこか暗い印象のある欅坂の中で、彼女の存在はいわば曇り空の中で一瞬差す太陽のような存在だったし、バランサーになっていた気はする。それは、大人とメンバーの間でもあり、メンバー間でもバランサーになっていた気がする。

いや、てか、あんなスピーチをしているメンバーを推さないなんて男じゃないだろ、って感じ(笑)。映画の中で彼女が「不協和音」のセンターを務めたとあったけれど見てみたかったと思ったほどだ(一応、過去のライブBDのラインナップをチェックした)。

そんな、菅井さんに興味を持ち始めた僕にはたまらない映画でもあった。特にあのエンディング!

しかし。
平手さんが抜けてその代わりとなる存在、を模索していた欅坂のラストシングルが「誰がその鐘を鳴らすのか」というのもうまいというか、

結局は
「誰かがやるのではなく自分がやるという気持ちにならなきゃ」
「誰だって鐘を鳴らせるチャンスはあるんだ」
という、何より次のステージに進む彼女たちへのはなむけの曲になっているのではないだろうか。

欅坂という作品が何より好きだった僕が、新グループの坂を上るかどうかはわからない。TAKAHIROさんや、映像スタッフがそのまま変わらないのなら見てみたいとは思う。

映画が終わって外に出たら、曇り空からまぶしい太陽がのぞいていた。僕はとっさに写真を撮った。撮りたくなった。エンディングが「太陽は見上げる人を選ばない」(YouTubeの欅共和国配信から好きになった曲だ)だったからかもしれない。

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これを書いた後、ラストライブが無観客になることが発表された。お客さんを前にしてのライブは、結果的にあの東京ドームが最後になってしまった。でもこれもある意味欅坂らしかったのかもしれない。もう既に次のグループに目が向いている、ということかもしれない。

僕にとって東京ドーム公演は最初にして最後の欅坂のライブになってしまった。あの日僕は見ることに集中しようと思って声は一切出さなかったんだけれど、今、猛烈に後悔している。

───僕はメンバーたちに何の声もかけることができなかったのだ。