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【紅茶のある風景受賞作品】*思い出と今を繋ぐ紅茶~8歳から始まった紅茶人生~*

母が教えてくれた、初めての紅茶。

こんにちは。ちなこです。
今日は私の初めて飲んだ紅茶についてお話ししたいなと思います。
これもまた、不思議なひとつの実話です。

ワインアドバイザーだった母、後にティーアドバイザーの私

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私の母はワインが大好きで、ワインの認知度を高めるためアドバイザーの資格を取り、月に一度ワインの品評会を開いたり、時にはワインを学ぶために東京へ出向いたり、時には海外と、とにかく各地を回り知見を広めている人でした。
また、ワインにあった創作料理を作る料理研究家でもありました。
今でこそ嗜好品として名高いワインですが、この当時はまだ日本には「ソムリエ」という資格も認知されていない時代でした。

とにかく大好きなワインで出ずっぱりな母と過ごせる時間はとても貴重な時間でした。

泣き虫な私に母がくれた紅茶

母はワインだけでなく、コーヒーや紅茶といった嗜好品にも造詣が深く、家の食品庫には絶えずいろんな嗜好品がありました。当時10歳にも満たない私は、それらが何なのかよくわかっていませんでした。

私が初めて紅茶を飲んだ日。
それは小学2年生。住んでいる地域のお祭りの子供神輿を担いでた時、私は転倒してしまい、みんなに踏まれて、痛いのと怖いのとで子供らしく号泣してしまい「もうお神輿嫌だあ!!」と母に泣きついていました。

涙で目がパンパンになって不機嫌な私を、母が連れて行ってくれたのは、お昼はカフェを開いているフランス料理屋さんでした。
そのお店は母のワイン活動をよく知っているお店で、母はオーナーと談笑しながらコーヒーを頼み、私に「何が飲みたい?」と聞きました。フランス語にカタカナのルビが振られたメニューをみながら、自分がわかる単語が「ピーチ」だけだったので「これがいい」と、ピーチティーを指していました。

出てきたのは、お洒落なグラスに桃が刺さった、独特な紅い色と下には黄色い桃の果汁の入った冷たい「紅茶」でした。

「うへぇ、大人の飲み物だ・・・。」飲めるか不安だったことを鮮明に覚えています。ストローでそっと、口の中に運んだ瞬間

桃の味なのに、花のようなお茶の香りと心地よい渋みが口いっぱいに広がったあと、鼻から抜けて、ビックリするくらい、その香りは長い長い時間私の味覚と嗅覚を染めあげていました。

「お母さん!これ何?桃のジュースじゃないの?桃じゃない味も匂いもしたよ!」と、驚きを隠せない私。
「それは紅茶も入っているんだよ。そういえばちなこはまだ、紅茶飲んだことなかったね。ウチにもたくさん紅茶あるんだよ?」
笑顔で答えてくれた母の顔は今でも忘れられません。
母と過ごした時間の中にあった「ピーチティー」はアイスティーなのに心はなぜだか温かく、不思議な味に魅了され、「お母さんは、いろいろな不思議な味を知っているんだ。」と、初めて母のいる世界を知れた気がして、ちょっとだけ大人の階段を登ったように感じました。

それから2年後、母はスキルス性のステージ4の末期ガンが発見され
『ワインをこの世に広めたい』という夢半ば
天国へ旅立ってしまいました。

私が10歳になって一ヶ月後のことでした。
母はソムリエになる前にこの世を去ってしまいました。
ちょうど、この年あたりからソムリエの田崎真也さんがメディアや書籍で注目されるようになり、空前のワインブームのさきがけの時代でした。
ひとりっこの私と、父だけの生活。学校から帰ると、毎日父親が母の仏壇にワインをグラスに少し注いでお供えしていました。

「もっとお母さんから色々教えてもらいたかったな。」
そう思いながら母の食品庫を開けると、沢山の煌びやかな缶たちが並んでいました。FAUCHON、フォートナム&メイソン、マリアージュフレール、Dilmah、とにかく日本語が書いてなくて読めないようなものがたくさんある中で、共通していたのが「tea」という単語でした。

Tea、ティー、あ!あの時飲んだやつだ!紅茶だ!

中を開けると、粉みたいな黒く乾燥し消しゴムのカスのような形のもの。何じゃこりゃ。でも、ふんわり香ってきた香りはどの缶からも似て非なるものばかりで、紅茶に種類があることをこのとき初めて知りました。

私が本格的に紅茶について勉強したり、お小遣い握りしめて紅茶を買いに行くようになったのはもう少し後のお話。

沢山美味しい紅茶があることを世の中に発信していきたい。
母が亡くなって15年後、日本紅茶協会のティーアドバイザー試験に合格。
私も母と同じ「嗜好品のアドバイザー」となりました。

今となって思うことは、資格を取ったことはスタート地点に過ぎないということ。この知識を活かし、どう活動したいか、仕事にしたいのか、趣味として紅茶好きでいたいのか、正直手探りです。きっと母もそうだったんだろうなと感じます。だから母は各地を巡り、知見を広め、アナログ主流の時代ながらもいろんな人に自分なりに伝えてきたんだろうなと、その中にも伝わらない苦労もあったんだろう、見向きもされないこともあったんだろうなと、今もフリーで紅茶に携わりながら伝えてる自分にも痛感してしまいます。
紅茶関連の会社に勤めていた時も、どうしても珈琲などの主流の嗜好品の影に隠れてしまいうまく伝わらない難しさを感じていました。

でも母のしてきた活動は、亡くなった後ではありますが根付き、ワインは今やワイナリーが各地や空港にできるほど有名になりました。
紅茶も時間をかけて、人々の心をそっと温める嗜好品としてポピュラーに親しまれるように私も活動していきたいです。

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(母が生前大事にしていたティーカップと私の好きなアッサムティーです。)

あの日、母に連れられてカフェに行かなかったら、紅茶を知ることはなかったと思います。

前回の記事で投稿したように、大切な人と飲む紅茶の時間は幸せで、時に儚いものですが、紅茶があるだけで、そこに紅茶があるだけで、いつもと違う非日常の風景を楽しむことができると思います。

私も20代後半、母とティータイム、夜はワイン嗜みたかったな。

お母さん、紅茶を教えてくれて本当にありがとう。
私も、まだまだ、がんばるね。



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