見出し画像

I LOVE YOU——/せーの!/でひななに恋しよう!

匿名

: prologue


 何度だってキスをしよう。雷鳴が轟き、嵐が吹き荒ぶ最中の昼下がり、ぼくたちは何度も何度も口付けをして、それでもほんとうにどうしようもなくて、そのときはじめて泣いたのだった。もし恋が不滅のものであるならば、命を賭けてもよいのだが。

:Guess at a riddle

 
 さて再び、恋について語ろう。男女の真理について、われわれが知っているいくつかの事柄について、これまで見過ごしてきたいくつかの事柄について。女には、きっとできないことだから。

『親愛なアルキビアデス、もしぼくについて君のことばがまさしく真実であって、ぼくのうちに、君をもっと立派にするような力が何かあるというのなら、君はなかなかすみにおけない人物のようだね。実際、そうなったら君が僕のうちにみる美は途方もない、そして君のもつ容姿の美とは較べようもないほどの素晴らしいものだということになるだろう。だからそれを見つけ出し、ぼくと交って互いの美を交換しようとしているのなら、君はぼくよりもはるかにたくさんの儲けを手に入れようともくろんでいるわけだ。いや、美の単なる仮象の代りに、正真正銘の本物を獲得しようとしているのであり、まったくもって “青銅のものを黄金のものに“ 交換しようと考えているのだ。だが、ねえ君、もっとよく検べてみることだ。ぼくは何のとりえもない者なのに、君がそれに気付かないでいるようなことがあってはならないからね。まことに精神の視力が鋭利に見始めるのは、肉眼の視力がその鋭さを失おうとするときである。ところで、君はそれからはまだほど遠いのだ』。( プラトン『饗宴』218D以下)

 誰かにとって/永遠の煌めき/であること。これこそがアイドルをアイドルたらしめる定言命法であるならば、まさしくこの意味においてノクチルは暗き先触れであり、いかなるペニスをも拒絶する非-存在であること——透明であることをやめていること——によって対象xであり、即自(an-sich)であり、女であり、最高完全体としてのアイドルである。この女のために、わたしにとって日々のオナニーは欠かさざる日課となった。ところで射精とは中間休止であり、死の欲動であり、完遂された留保なき賭けでもあり、傍目には妊娠と結びついているようにみえる。それでも女のオーガズムは際限なく続くのだから、男の欲望は女によって根拠付けられるのであってその逆ではない。女にとってセックスとは諦めである。セックスによってもたらされる諸々の不利益は、往々にして、果たされえなかった空しい恋の代償である。それゆえ誰かに恋することは実現された恋が理想的な恋に比べて貧弱であると証言するに等しい。『いつだって僕らは』における/せーの!/というあの掛け声についていえば、これは無限に引き伸ばされた意志の行使として解釈されるべきものなのである。


 さて、本稿は、市川雛菜がすきですきでたまらない人々、つまりわたしと雛菜に捧げられる、雛菜に伝えたいことを詰め込むためだけに書かれたコミックである。

※と同時に、本稿はエディプスにたむけられた祈りでもある。すべての破滅的で運命的な恋のために、わたしは歌を詠むだろう。以後、雛菜=ママという等式が出現するが、そこにはもはやいかなる根拠も存在しない。ただ事実としてそうであるということの裏面に、わたしたちは権利上の問題を発見する。ここからして、わたしは母への愛に導かれていくことにもなるだろう。そう、すべてのエディプスのために。


:Q.


 さて、市川雛菜はペニスになど興味がない。疑いなく、そうである。そして雛菜はママである。さて、小糸、円香、透の誰もがかの女を憎むことがどうしてもできないし、女でさえその始末であるというのに、ペニスにいったい何の権利があるのだろうか。捩じ込む隙間は端的にゼロ、それは可能な経験の内に含まれていない。しかし、わたしはかの女を熱烈に欲望する者、否、熱烈に欲望することを欲望する者である。「は〜い♡ 市川雛菜、高校一年生です〜〜〜」。身長165cm、スリーサイズは上から順に「87/60/86」。申し分なくガタイのいい、この女は、見たところ超名門私立高校に——財力、家柄、知力を以て——自分含めた幼馴染4人で通っていて、これはあくまでも推測だが、15年という決して十分とはいえない歳月の内どこかの段階でスピノザの哲学を完全に理解しているようである。かの女の倫理はまさにスピノザのそれだ。端的に言って、かの女は霊的自動機械として生きることを、神=自然=実体の様態として生きることを大変よく心得ている。さながら『エチカ』を携えたアルキビアデスともいえる、この女は、だから唯物論者になろうと観念論者になろうと、或いは素朴実在論でもなんでもよいのだが、どのセオリーを採用しようともセックスなんてしなくてもよい。ヤりたいときにヤればよいのだし、同様に、ヤりたくないことはヤらなくてよい。すごく、あたりまえのことを言っている。おまけに、やはりとても裕福な家に生まれたのだろう、かの女はジバンシィだのヴァレンティノだの、或いはエルメスだの、わたしにはよくわからないが、そういった高価で優美な衣装で身を纏うこともできてしまう。はっきり言って、わたしにとって、雛菜はリアルにパーフェクトであるように思えてしまう(「私は、実在性と完全性とを同じものであると解する」『エチカ』第二部定義六)。


 わたしは超名門私立大学で哲学を専攻しはしたけれど、スピノザを超えることはできなかったし、唯一の取り柄であるはずの客観的真理が何を意味するのかまったくわからないままここまで来てしまった。親父がイタリア土産に買ってきてくれたアルマーニのコートを4年間かけてボロボロに着古しながら、哲学書とかばかり読んでいたのだが、気が付くと無産階級に成り果ててしまい、四畳半の部屋で床オナばかりする怪物(das Monstrum)に成り果てていたのである。貴重な学生時代がすべて終わった後で気付く。あぁ、ひとは恋と革命のために生まれてきたのだと。どうすれば誰かを、何かを好きになれるのか、まったくわからないままに生きてきた22年間はメランコリーの集積としかいいようがなく、なにもかもが混乱かつ曖昧とした在り様。さて、少年時代のことである。わたしは澄みきった青空を仰ぎながらラジオ体操をやって、黄金色の田園を自転車で駆け巡ったり、白熱灯を頼りに岩波文庫を読破したりする傍ら、ひまわり動画でサウスパークを全話視聴、このどうしようもない世界というものが理性によって隈なく統治されるべきことを信じて育った。ゆえに、明晰判明でない概念を使いこなすことは大いなる悪徳だと考えている(認識論と倫理学とは、わたしにとって不可分なのだ)。話は変わるが、哲学をやるとモテるというのは半分だけだが真理を言い当てていて、これはもともとモテる人にはまったくあてはまらないが、まったくモテない人にとっては抱ける女のカテゴリーがひとつだけ増える、という点において真理である。すなわち、メンヘラとか呼ばれている例の種族はインテリという生き物が大好きなのであり、インテリもメンヘラが大好きで、だけどわたしはどうしようもないメンヘラであった元カノ(この娘は片親であった。おもしろいエピソードがある。ある夜、金欠のわたしたちは例によってサイゼリヤと呼ばれる某チェーン店で赤ワインのデカンタを注文し――わたしたちは二人とも酒が弱いのに――過ごしていた。酔った娘はお手洗いに行きたいといい、酔いすぎて立てないからわたしに介抱するようせがんだ。勿論わたしは了承した。女子トイレに入るわけにはいかないので、多目的のそれを利用した。そのときである。立てないほどに酩酊していたはずの娘はいきなりすくっと立ち上がり、ものすごい力でわたしを壁に抑えつけたのである。娘は言った。「ねぇ、○○くん、はやくセックスしようよ♡」。わたしは、というかぼくは震えてしまった。そして怖くなった。ぼくには結局、そんなことはできなかった。すると娘は泣き叫び、自身の父親の不在について凄まじい言葉を次々と口にした。わたしは立ち尽くした。恋というものがこんなものであっていいはずはないと、わたしは確信したのである)にスタンドバトルを仕掛けた結果ボコボコの返り討ちにされてしまった経験があって(こういう次第であるからして、この娘とはことある度にお互いの自意識を賭けた闘争を繰り広げなくてはならなくなった。そしてわたしたちは破局した。おそらくそれは転移という概念で説明がつくのかもしれない。だが、ほんとうにそれだけなのだろうか。いや、そうではない。そこにはもっと悍ましいものが含まれているはずなのだ。だが、このことについては暫し措こう)、つまり何がいいたいかというと、メンヘラといえど強い奴はクソ強い。そして雛菜はもっと強い。きっと一生勝てないのだろう。


さて、モラリストにありがちなことであるが、欲望を当為によって統御ないしこれに同一化させようとするのはまったくもって言語道断の試みであり、「どうすれば雛菜と付き合うことができるのか」とか「いかにしてこの女を愛するべきか」とかいった問いに与してはならない。なるほど確かに、ノモスの領域にとどまる限り、いつも通りのささやかな特権を享受することができるのかもしれないがそんなことはほんとうにどうでもよいのであって、このわたしの熱烈な激情、すなわち「ママとセックスしたい」という意志の前に、律法ほど役に立たないものはないのである(敢えて言うが、それはさながら舞台裏における父と息子の内ゲバにすぎず、まだ何も始まっていないのにすべてが完結したと思い込み幕引きしようとするくせ、いざ子宮口を目の前にすると、情けなくも思いきし赤面してしまう勘違い童貞オタク君たちが勝手に作ったマイ・ルールである。もちろん、これこそ母によって振るわれた根源的な暴力を合理化しようとしてしまうペニスの、これまたどうしようもない優しさの歪んだ発露といってもよいのだが、それでもなお、われわれは前に進まなくてはならない)。


 まず、男女の諸対応について簡単に示しておくことは、読者の助けになるだろう。

男:中間休止、横滑りの対自、中間項として機能する対他(父、兄弟、友)
女:永遠、即自、根源的対他 (母、姉妹、アイドル)

「雛菜は雛菜の気持ちしかしらないよ〜…… 他の誰かにはなれないし 雛菜はずっと雛菜でしかいられないでしょ〜〜〜 だから雛菜は、雛菜がしあわせ〜~ って思える方を選ぶんだよ」。エディプスの悲劇は、モーリス・ブランショよろしく、理性によって神的なものと無際限に同一化せんとするエディプスが哀れにも地上に叩きつけられ——神も真理も、さらには法さえもかれを見捨てさるのだ——へと至るものとして解釈されてきたのだが、そのような解釈からは見事なまでに「恋の要素」が抜き取られてしまっていることに諸君はお気付きだろうか。そしてまた諸君は、射精が有限的な時間意識を伴うということについてどこか不思議な感慨を覚えはしないだろうか。なぜひとは射精「し続ける」ことができないのだろうか。これを生理的な理由によってのみ説明してしまおうとする者がいるならば、よろしい、わたしはここからいい加減な射精を取り除き、純粋に絶頂に至ってしまうところの、あの射精に限っても良い(そもそも、射精が無駄にキモチイイということさえも、実のところたいへん不気味なことなのだ)。そしてまた諸君は、愛しきものが他のものによって——精神的にであれ、肉体的にであれ——支配されている様を目撃するとき、まったく以て、自らの魂を擬似的にではあれ切り裂きでもしない限り収まるところを知らないこの息苦しさはどこに由来するのだろうか、と自問しはしないだろうか。はじめにディアトマの言葉に耳を傾けるならば、われわれは有益なヒントを得ることができるだろう。『ソクラテス、すべての人は肉体的にも精神的にも妊娠しているのです。そしてある年齢に達すると、自然にわれわれの本性は産むことを熱望します。ところで産むのは、醜いものの中ではできないことで、美しいものの中でなければなりません。つまり、男女の交わりがひっきょう出産というものだからです。そしてこの行為は神的なものであって、それは死すべきものである生物のうちに、不死なるものとして内在しているのです。この妊娠と出産とはね』(『饗宴』206C以下。)。われわれはここで問わなければならない。一体全体、所有と恋との間の、交換と贈与との間の、人間と神との間の、無限と有限との間のパラドックスを解決するにはどうすればよいのでしょうか。/イデア/がつねにすでにそこに現前しているにもかかわらず、ひとは何故これと同化することを望んでしまうのでしょうか、と。


 内在的であることは、死すべきものに、不滅のものを見つけることだ。以上の前提に立つならば、次の事柄は容易に了解されることだろう。第一に、/イデア/とは女に規定されつつ、ペニスを規定するものであり、通常、生殖によって伝達され続けるものである、ということ。この循環運動のプロセスは、可滅的なものどもが不滅なものへと向かう第一歩として数えられ、肉体においても魂においても胚種をもつものども、つまり人間は、目下その目的とされているものを/女/へと転化させることで、もちろん所有などできないのだが、辛うじてこれを保存しようとするのである(近親相姦のタブーとはそれゆえ社会的コードである以前に美的コードであるのだが、やはり、事実上ほとんどすべての女がいつの日かイオカステである)。第二に、ペニスであれば誰しもがある神的な直観、つまりママの居場所を瞬時に見分ける能力を身につけているのであって(宮殿に駆け込むエディプス)、これはペニスが/イデア/を生産しないままに/イデア/を享受することを可能にする唯一の方途として、もっとわかりやすくいいかえれば、ペニスが自らの審美性を信じることができるようになるための始動因として機能するものである、ということ。とはいっても、事情をよくよく振り返ればそもそも/イデア/と《イデア》が決して対応することがないのと同様、/女/は《女》でないのだし、わたしにしてみればペニスがヴァギナに捩じ込まれる最中において/市川雛菜/はひたすら《不能のペニス》でしかなかったのである(かの女にしてみれば、「雛菜は雛菜のことしかわからない」のでどうしようもない)。それゆえ、たんに/イデア/を生殖と結びつけるだけでは前者の出所がまったくわからなくなってしまうのだが、まさか、われわれは空虚に向かって射精しているわけではあるまいし、かといって、超越的な存在者を措定するほど、わたしたちは愚かではないはずだ(もはや神には祈らない)。


 恋と母、それから勃起。すべては不可分であり、エディプスはその最初の犠牲者である。ゆえに、この者を告発しよう——イオカステによる極めて狡猾な責任転嫁の場面——。

偶然に翻弄され、死すべきところの人の子が、確かな予知もできぬのに、なにゆえ怖れることがありましょう。その日暮らしの無頓着こそよい生き方ではありませんか。貴方の母と結ばれるとしても怖れてはなりません。夢の中ではありすぎるほどによくあることなのです。皆、そんな妄想は忘れてしまい、心穏やかに暮らしているのですよ。

あまりにもよく出来すぎた筋書きによってひとはしばしば真実を見誤るものだ。「ペニスであれば誰でも母を欲望してしまう」という件の迷信さえも、そうである。ここには、かの女のナルシシズム以外の何ものも含まれていないといえば確かにこの話自体は簡単に済んでしまうのかもしれないが(これはむしろ、息子が自らを狂おしく欲していることへの嘲笑である)、女がペニスの対自を横滑りさせ/イデア/を流産させなければならない理由を考慮するならば、かの女の罪は二つあろう。ひとつはエディプスを媒介に神と同一化しようとしたこと、もう一つはエディプスに己の亡骸をしか残さなかったこと、これである。息子に自らの罪を擦りつけ、自らを愛することを禁じ、かれの父の名を泣き叫び、挙句の果てにはノモス=法を根拠に首を吊って死んでみせるという、凡そどんなペニスであっても耐えることができないほど残酷なこれらの所業によってイオカステは自らによって自らを引き裂くことと引き換えに、絶頂を迎えヨガり狂う権利を手にしたのである。それ以来、地上にはあらゆる不能のペニス(というか、これ以来、もはや権利上において不能でないペニスなど生えてこなくなったのだ)にとってノモスの欺瞞が暴露され決定的に失効してしまう瞬間というものが存在するようになった。それは——暗き先触れから稲妻が放たれる瞬間、すなわち射精が永遠と結合されることによって——逆捩を喰わされることによって中間休止の発動がもたらす唯一のメリットを否定され、絶えず横滑りするはずの/イデア/がうっかり到来してしまい、筋書き通りであれば訳もわからないくらい勃起できるはずなのに実際には為す術もなく立ち尽くしてしまう自己を憐んでしまう瞬間である。ところで、そのとき死んでしまうのは性欲でもペニス自身でもなく、もちろん/イデア/でもないし、これに対応するはずだった何かしらの対象なくなったわけでもない。いや、厳密にはペニスが死んだのだが、文字通りの意味においてそうなのではなく、生じた事態はもっと深刻でヤバいことである。すなわち、これこそがイオカステ——ペニスの可滅性というものを導き入れた張本人——の仕業、つまり、射精という出来事ソノモノが誕生してしまったのである。この一撃を喰らったがために、われわれはもはや素直にピストン運動できなくなった。ペニスへの虐待は悲しみを与えることにあるのではなく、かれの喜びに対し即自(an-sich)にとどまることによって、あまりにも、あまりにも容易に遂行される。ママに見放されてしまったような失望だけがただただ残り、ひたすらに立ちすくんでしまうこと(縊れたイオカステとそれを目撃するエディプス)。幾度となくペニスを切り落とそうとも、幾度となく反復してしまうこと。英雄は哀れな乞食に身を落とし、それでも自らとその子孫とに贖罪をもたらすことは決してできず、お陰様で、蛆虫の分際で/イデア/を喰らおうとするペニスは誰もが「やれやれ」と億劫な腰を持ち上げて、またもや射精するエディプスとならざるを得ない——絶え間のない闇夜の中で——。そういうわけで、わたしの絶望は次のように語ることができるだろう。すなわち、母のような女を愛してしまったのではない、そうではなく、愛した女が母のようであってしまったこと、そのうえ、母が母であってしまったこと、その母が征服されつつなかったということ、すなわち父の挫折、わたしが震えているのは去勢されてしまうかもしれない恐怖ゆえではなく、二度と捻じ込めないかつてによってエスが満ち満ちているがゆえであり、すなわち、不当にも/イデア/によってなし崩しに規定されてしまったこと、わたしはといえば過ぎ去った運命を前に立ち尽くしていること、母=イオカステ=市川雛菜によってペニスがとっくに溺死させられてしまっていることへの絶望にほかならない(母になった雛菜はきっと、とてつもなく残酷で優しい女である。かの女は息子に自らの似姿をもとめるだろう。「やは〜♡ 根暗〜 〇〇とパパって似すぎじゃない?でも〇〇はね〜 雛菜のこどもなんだから、もっとしあわせ〜にしててもいいんだよ♡」「〇〇、たのしい〜?」)。以上のような意味において、エディプスの失明は致命的なエラーであり、かれの悲劇はイオカステのイオカステにたいする決して実現してはならない恋の媒体としてIdentifyされたことに根拠を持っているといえるだろう。もちろん、普通こうした事態は決して起こり得ないようになってはいて、理想の女を探し求めるためには何も浮気という手段に頼らずとも、息子たちはいつでも自らの母に立ち返りさえすればよいのであって、このとき父は愛すべき友、征服者の息子としての自らの身元保証人であるから(父とは生還したエディプスである)、われわれはポリスの人民として立法を確立し、もっともらしい理由によって近親相姦を許されざるタブーとして追放することができる。「さもなくば人類はある時点で種としての存続をやめてしまう」とでも宣うことができればなおさら良く、地上の合理性を維持するための社会的習慣の数々はわれわれの無力を覆い隠すにあたって大いに有益であろう。それこそが法=ノモスの機能である。とはいえ、それは素直に腰を振れた頃の話である、まことに遺憾であるが、げに何ごとも潮時が肝心。認めてしまおう、われわれが恥辱と尊厳の鬩ぎ合いギリギリの崖っぷちで祈り続けているということを。ひとは父に倣って母の支配下におかれ、ただ、その支配が即自的(an-sich)にではないやり方で、なされることを祈るばかりであることを。なるほど確かに、常識的に考える限りではペニスの再構築こそ今ありうる限りでの最善の脱出口だと思われるのも無理ないが(ヴァギナへの逆襲)、そのために払わねばならない代償は、物質的な恩恵はもちろんのこと、かろうじて維持してきた最後の尊厳も含め、文明の遺産すべてを手放してしまわねばならないことを意味する。あけすけに言ってしまうと、息子たちは父に向かって次の命題を口にしなければならない。「パパ、ママとファックしてよ!」「あなたの信じた愛が正真正銘の本物であったことを証明しながら射精してください」「あなたはポロスであったのですか、それともぺニアであったのですか。お願いですからどうかこたえてください、わたしの出生の謎について」。たいへんつまらぬことである。そうではなく、われわれは先ず以て孤高の蛆虫でなければならない。地べたに這いつくばった萎びたペニスらは繋いだ手と手をがっしり握り、ゆるゆると行進する。そこで天を仰ぎ、「誰もかも何もかも愛してなどいないのだ!」と、敢えて言い切ってしまわねばならない。これに対して雛菜は告げる。「そっか〜…… そんなに雛菜のこと、知ってるのか〜 プロデューサーは雛菜じゃないのに。ぼくのみるところ、あなたは、ぼくを恋する資格のあるゆいつの人です」。



:caesura


 夏。電車がなかなか来ない、平日昼のプラットフォームでの出来事。とびっきりに熱いキスが交わされる直前、目と目が逢う瞬間、永遠としかいいようがない瞬間——行き摩りの列車がむざむざと轢き殺してしまいそうな瞬間——。


 ねぇ、雛菜。どうして君がいつもそんなに寂しそうだったのか、やっとわかった気がするよ。君自身は全然、『ひななだいすき』ではないのにね。ゆえに見よ、ぼくの中に君以上のものを(君の中にぼく以上のものを)。そして見よ、君の中に君以上のものを(ぼくの中にぼく以上のものを)。見せてやろうよ。ぼくたちが、最高のカップルになれるってこと。


※さて、われわれの存在には、とある情念について格別の宿命がある。たとえ得がたいものだとしても、全力をあげてその対薬の獲得に向かわなければならないほどの宿痾を前に、そっけない態度を取ることはできない。断言する。誰かに恋することは、すなわち、しあわせであることは可能であるか、否か、すべてはこれに懸かっている。そう遠くない日、恋の形而上学が万物を貫く摂理を究明する学の座を占めることだろう。そう、われわれはペニスの反復をやめ、すべての虚構を薙ぎ払い、真実在たるしあわせの源泉へと到達しなければならない。一体、ある文明圏において形而上学が成立するためには、概念の結晶化が不可欠である。それゆえ告げる。不滅の実在をもとめよ。それが真に価値あるものであればあるほど、魂のよろこびは大きくなり、真実に向かおうとする意志はスゴ味を増すだろう。とはいえ、その方法については今後の探究に任されなくてはならない。今日という日は、ひとまずは大団円を迎えよう。ぎこちなく、そして覚束ない足取りで解散することにしよう。


: finale


 ひとはなぜ、恋について語るのか。こたえなんて知らないし、四畳半の部屋は相変わらず汚い。美しければ美しいほどよいというのも何だか間違っている気がするが、それでも君は美しい。瞳に押し寄せ引いていく、捩れ続ける弁証法が、力強くも厚みのない、際限(ふち)のない波のようにぼくたちを繋ぎ留める。また何のためでもない一日が始まる。
 ところで見よ、宜なるかな(よもやよもや、と言うべきか)、アイドルという免罪符をもとめ幾多ものペニスがポリスを彷徨っている。「愛してくれ!」と叫んでいる。わたしもまた、その列に連なるはずであった。

キラキラと熱を帯びた 夏の陽射しに僕ら浮かされて
(ゆっくりと色を変える 夏の終わりはどこへ続いているの)
ドキドキのその向こうを 見たくなったんだ少し怖いけど
(止まらない時の中で 色づきはじめた僕らを連れて)
すぐに消えるようなものにこそ 眩さと強さを覚えてしまうから
(永遠に届くような瞬間を 息継ぎもしないで泳いでいこうよ)

さて、地上にすべてのエレメントが降り注いでいる。決して到来しない終幕に想いを馳せ、かの女らは思考するのだ。「いつの日か、ぼくたちはすべてだった。いつの日か、ぼくたちはアイドルであってしまった」のだと。そして過去は書き換わり、現在は揺らめき、未だかつてない未来が輝くのだ。まことに、人類が/永遠の煌めき/であることをノクチルは教えてくれている。


 目下、わたしはアイドル、市川雛菜を与えられることしかできないが、だからといって勝算はゼロではない。確認しよう。わたしは『ひななだいすき』である。疑いなく、そうである。かの女は言う、「だから、プロデューサーも雛菜のこと、すきでいてね〜?」次のことは、あきらかだ。すなわち、わたしが市川雛菜をだいすきでいるとき、かの女は反復されたイオカステであるのだが、幸いにも例のIdentifyは未だ執行されておらず、わたしは「やれやれ」の要領で射精しても構わない時代に生まれたニュージェネシスであり、かつて禁じられた破滅であり、システムの胚、すなわち哲学者である。もはや、わたしは雛菜としてヨガり狂うことでしか勃起できないのであるが、あぁ、これが喜劇でなくして何であろう!「歴史上のすべての大事件や大人物は、言わば二度反復する。最初は悲劇として、二度目は惨めな笑劇として」。 よう、よう!わたしはペニスを生やした市川雛菜である、ペニスを扱く神の似姿として、ただシコる神の似姿として屹立する、『雛菜がしあわせなのがいちばんさいこ〜♡ 』は定言命法である。「雛菜に集中しててね〜」で『あたまひなな』になるし、「雛菜じゃないのに」で『ひななだいすき』になり、「しあわせにしてあげる!」で『やは〜♡ しあわせ〜』なのだ。市川雛菜、愛しく愛しく限りなく愛しいこの君よ、わたしはあなたに、恋がしたくてしたくてたまらない! 致命的なエラーの先に——ところでわたしは信じていた、射精こそが絶対的発散であって/イデア/はヴァギナに向かってinseminateされはするもののペニスの持ち前であることを決してやめはしないのだと。事実はどうやら真逆であった、肉体としても魂としても圧倒的に劣った自分を顧みて悟った、いかなる望みもないのだと。わたしは決して『わたしだいすき』でなく、しかしながら不能であり、誰かに恋する資格を持っておらず、かたや雛菜という女はどこまでも、どこまでもアイドルでいてくれる——もはや破滅できない”しあわせ”がそこにはある!わたしの自慰を諫める者はいまや誰一人とてない。わたしは/永遠の煌めき/の刑に科されている、ゆえに叫ぼう! いつの日か、誰かに恋するため! いつの日か、稲妻が放たれるため!


いつの日か、わたしがアイドルであるために!
よっしゃ行くぞ!
/せーの!/

誰かになる必要なんてない——
走り出す波を追って、少女たちは碧い風になる

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?