パパが残してくれたもの。前編
みんなのフォトギャラリーから
八ヶ岳🔍️検索で気に入った画像をお借りしました。
***
段取りのリョウさん。
父はこう呼ばれていました。
2016年の最期の日は、まるで段取りしたかのような、そんな逝き方でした。
私のこと少しずつ♡
にはやはり、まず父のことを書かないと
前に進めない気がして。
私のことを少しずつ順番に書く上でパパという存在が大きいから。書いておきます。
いつか、50年以上の後に(100歳まで生きる気満々です)私が最期を迎えたとき
子ども達が見れるように私のことを少しずつ綴っています。
パパが残してくれたもの。
昭和16年生まれ、父は佐渡島(新潟県佐渡市)の出身です。
父親(私の祖父)は戦場から帰らぬ人に。
戦地に行くまでは第四銀行両津市支店の支店長でした。
体が弱かったこと、金融機関の支店長だったことで召集は父が2歳の時だったそうです。
厳しい戦地に行った祖父を思うと胸が痛みます。
そういうわけで父は母子家庭で湊町で育ちます。
新潟県両津市湊2丁目
ここに、私もよく行きました。
父は幼稚園を中退しています。
本人曰く今で言う発達障がいだろう。とのことでした。私の息子が保育園~小学校の頃に発達障がいと言われた時に、何がおかしいのかが分からん!と言って、自分の小さい頃と同じだから大丈夫だと何度も私に言ってきました。
熱く語る父、今では良い思い出です。
小学校と中学校はガキ大将だったとのことで
どこでどうしたものか、勉強は出来たそうです。
その頃どうだったのか聞くと、勉強できない友達の気持ちが分からなくて嫌われてたそうです笑
そりゃ、そうです。声に出しちゃいけないことも世の中にはいっぱいあるんだから。
両津高校という高校が当時は偏差値が高く進学する生徒も居たそうです。
父はそこに入学しますが、大学に行くつもりは最初は一切なかったそうです。
小さい頃から漁師になりたかったとかで、小学生のころ漁船に乗り込み学校をサボって、警察に捜索された経験を面白おかしく話してました。おばあちゃんは「そんなこて、どこもおもしくないっちゃ」(そんな話は面白くない)と言ってました笑
ところが、高校生になって、勉強が思いの外楽しかったんだそうです。
英語のルールブックを翻訳してバスケットボール部を立ち上げたり、青春を謳歌してたようです。
成績は主席を常にキープしていたそうで、担任の薦めもあり、大学進学を目指します。
当時の佐渡島の教育では大学に行くには一旦島を出て、最低1年浪人が必要だったようです。島で一番でも本土では通用しなかったみたいです。父も東京で浪人生活を送ります。
その頃の貧乏生活を楽しそうに話してました。
きっと良い思い出になったんでしょう。
志望校は「東大」だったそうです。
で、本人は「ちょっとした東大に入った」と言ってました。東北大学です。
佐渡島から東京へ、そして仙台に。
もう島へは戻らないと決めていたそうです。
一旗揚げるのを海じゃなく街でと夢見て。
その後の人生で叶ったと思います。
東北大学で、何を学んだかというと土木建築ですが、本人は「山を知り学んだ」と言ってました。山岳部に入部し、人生の最期まで続く趣味になります。趣味を越えてたかもしれません。
大学は奨学金で通いました。
卒業後、10年の教職で免除になるものだったそうです。
そこで工業高校の教員を10年、終わったらあっさり辞めてるのですが、その後の会社経営の中で何度も教え子に助けられている姿を見ました。
その工業高校で、図書館の司書だったのが私の産みの母親です❤️
職場結婚❤️ですね❤️
その後のことは、、、
ここではちょっと省略させていただきます✨😌✨
私の産みの母親になるお嫁さんとは離婚
再婚したママと一緒に私と兄とを引き取って
きっとその頃が一番平和で一番良い時代だったかもしれません。
高度経済成長期に起業し、会社は海外にまで支社が出来て、本当に忙しそうでした。
その頃は山には行くことはなくなり
ゴルフで県庁の偉い方たちと営業していたんですが(当時は談合当たり前の入札だったみたい)
スコア平均80で、悩んでました笑
もう突き抜けるしかないんじゃないかと思ったのかどうか知りませんが、ある時から開き直っていて。
私は父がコンペでもらってくる賞品が楽しみで、家電が被ると私が1つもらえるシステムでしたのでテレビ来ないかな~って思ってました笑
ところが、、
良い時代、というのはいつの間にか終焉を迎えていたようです。
ある日、突然倒産して、家もなにもかも(物質は)失いました。
私たち家族にとっては突然の出来事でしたが
父は計画的に、3年の時間をかけて倒産を迎えていました。
そう言われてみれば…ということが多々ありました。
私は親元にずっと居たいと思ってたわけではなく、一人暮らしに憧れがあって、21歳からちょっと家を出たり病気が悪化して戻ったり、を繰り返してました。
いい加減にしなさい!と怒られて、実家に戻って落ち着いていた倒産の3年前に、突然「家を出て良いぞ」と言われます。
実は住んでみたいマンションを見つけていて、こそこそ計画してたのでヤッター( ≧∀≦)ノと大喜びで出ました。
そこが3年後、母と妹の避難場所になるとは知らず。
兄には後を継ぐようにと、大手ゼネコンに就職させてたのですが「継がなくていいぞ」と言い出したのもその頃です。
でも、家族は誰も気付かなかった。
悩んでた様子もなく至って平静でしたから、気付けませんでした。
ただ、倒産する前月、そのときも私は実家に泊まってて(しょっちゅう帰ってたと思います。甘えん坊ですよね)夜中に父が吐血し鼻からも出血
タクシーで病院に運び(本人がしっかりしていて、病院に行かないというし救急車も呼ばせてもらえなかった)検査しましたが原因は分からず翌朝ケロッとしてたので不死身よね、くらいに笑ってました。
でも、それはきっとストレスで体が限界を超えてたんでしょうね。。。
社員にも、専務にだけ状況を伝えて、少しずつ二人で社員にも説明し取引先に転職させていたそうです。
いよいよ倒産する前月に中核となってた社員も全員、取引先会社にいき、残っていたのは父と専務だけ。でした。
当時は取り立て屋が土足で入ってくる時代です。
倒産の前日、呼び出されて私は実家に泊まっていました。
朝、いつものようにマークIIだったか、忘れてしまったけど大きめの車で出社。
我が家では父が出勤するときは、母と私で見送るのが恒例でしたので、その日も穏やかに見送ったのを覚えてます。
なーんにも感じませんでしたが、18時に帰るから待ってるように言われ、待ってました。
何時もと違うエンジン音で、何だろう来客かな?って車庫に行ったら、社名の入った軽自動車で父が帰ってきました。
???
いつものように家に入る、玄関までの数メートル「これから頼むよ」って言われて。
何のことかなぁって思ったのを覚えています。
玄関から居間へ。そこで
「○○株式会社は、倒産しました!」
と突然の宣言です。
母と私、妹、祖母。ポカンです。
意味が全くわからない‼️
分かってない私たちに、簡単に事情を伝えて今後の予測される状況を伝えられました。
・住んでる家は明日から売却リストにあがる
・家具も明日、貼り紙をされる
・車も売ってきたこと、今ある車も明日持っていかれる
・早くて今夜から取り立てが始まる
「ということだ、申し訳ない!」
母が泣きそうになってました。
そして、今後の対策。
・明日から母と妹は私のマンションに寝泊まりする。
・祖母は老人ホーム(ディサービスで通ってたホーム)に入居、手続き済み
これを聞いて、泣き崩れた母。
黙って自分の部屋に籠った妹。
私は祖母の背中をさすっていました。
父を、悪者のように言う母が哀しかったな〰️
と思い出されます。
私は「これから頼むよ」の意味を理解して、祖母の荷物をまとめ、母をなだめて、妹には大丈夫、なんとかなる。と根拠のことを言うしかなかったんです。
箱入り娘と言われて育った私と妹は急に大きな箱を失うわけですが、私はこの時、父の気丈さが寧ろ心配でした。
倒れないでね、っていつも言ってた気がします。
父が言う通りにみんな動いたわけですが、
予想に反してその夜から取り立てが始まり、怖い経験もしました。
そして1週間以内には倒産の事実が新聞に載って、お嬢様高校に通ってた妹は酷くイジメに遭い学費も続かず退学。
母は最初もぬけの殻でした。
3年前から思い起こすと、預かってた毎月の生活費が100万から80万になり、50万になり、30万になってたとか、毎年の旅行が今年はなかったとか、あーだったこーだった、って知ってたら節約したとか、聞いてなかったからお金を使いきってしまってた、等々…
わかる、わかるよ、誰をおいても母には言っておくべきだったんじゃないのか、私も兄も妹も、きっと祖母も思ってたよ。
でも、言わない男なんだよ、リョウさんは武士だから❗
私のマンションに避難している間に、父は公営住宅を探すつもりでしたが、急には空きはなくマンションを契約して、母と妹はそこに行きました。
母はタラレバを捨てて、パートに行くようになって、生活が落ち着いた頃、、、父との毎日が耐えきれず離婚することに。
金の切れ目は縁の切れ目。
まさか、この言葉が自分の親から出るとは。
でも、悲しくありませんでした。
だって、二人とも精一杯生きてたから♡
1ページに纏めたかったのですが
無理でした笑
パパが残してくれたもの。が何なのかたどり着けませんでしたね。
後編に分けて書きましたので、もし良かったら続けてこちらお読みください(*^.^*)
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