【映画レビュー】“終焉”の黒い羊

「皆は今欅坂をやってて、楽しいですか?」

この言葉に平手友梨奈の心中全てが詰まっているのではないだろうか。


初めて不協和音を紅白の舞台でパフォーマンスした年のことだ。
平手は既にこの時、休業に近い欅坂からの離席を求めた。
そして2年越しに、それは脱退という形で実現した。メンバー想いな彼女らしく、最後には1人ひとりと互いに言葉を交わして。


平手友梨奈の脱退

劇中の平手に対する発言を取り上げよう。

「目を合わせてくれない」、「私が悩んでいるようなことに平手は悩んでいない」、「ずば抜けた表現力」、「私達はバックダンサー」、「天才」。

ある程度抽出して選ばせてもらった。
どれもこれも素直で、正直な気持ちだと思う。
しかしはっきり言えば、彼女に頼りきっていることが丸わかりだ。私達ファンが思っていた以上に、メンバーは平手に対しての想いが強かったということだろうか。


私はここである疑問が生まれた。

作品を創作する上でディスカッションを好む平手(過去の女性誌より)と、平手以外のメンバーは果たして同じ次元で作品作りに取り組めていたのだろうか。
彼女を取り巻く全ての人間は、センターである平手に本当に正面から向き合えていたのだろうか、と。

確かに、2017年の全国ツアーの頃を思えば、現在では2期生含めて多くのメンバーがセンターを経験し、大きく成長した。2019年の全国ツアーではセンター平手が居なくとも圧巻のパフォーマンスを魅せ、私自身それに陶酔していたことも記憶に新しい。

しかしながら、センターを経験し、その負荷をたとえ理解することができていたとしても、大切なのはその後の行動だ。
本当の意味で、平手に寄り添うことができたメンバーは何人居たのだろう。

真相は分からない。
ただ少なくとも9thシングルについては、そうではなかったように思える。


話をまとめよう。
平手以外の人間、メンバーやスタッフだけでなくファン、メディアも含め全ての人間は平手を信じすぎた。
本人にとって精神的な孤独が続き、ついにその水は溢れてしまった。
活動全体を見渡せば少し意味合いは異なるのだが、パフォーマンス面においてはその可能性が高いだろう。
そして平手は最終的にグループを去った。


私は初め、この“孤独”が平手を追い込んでいたのではないかと考えていた。しかしある映像を機に、別の観点が生まれた。

劇中、3rdアニラ東京。
アンコールで披露された『黒い羊』を思い出してほしい。
パフォーマンス終盤に、平手が小林由依を突き放すシーンがある。その意義については様々な見方があると思うが、私にはこう見えた。


「君はこっち側に来てはいけない」

それも演技ではなく、ある種 “真実” として。


平手は自分自身が「黒い羊」であることを感じており、この曲が答えそのものだったのではないか。
まさに歌詞の通り、自分を除く「止まっていた針」を動き出させる為に脱退を決断したのではないか。

あの表情が、私には彼女の本心のように思えた。

歌詞に忠実で安易だが、これが私の解釈だ。
文中に述べた“孤独”も要素としては存在すると思うが、それは結局のところ決定打ではなかった。


『黒い羊』こそが欅坂46としての彼女の終焉であり、自らのパフォーマンスが彼女自身を動かしたのだ。

『10月』の曲調・世界観はともかく、平手は『黒い羊』に出会えたことで自分を見つめ直し、自らを重ね、この曲を彼女自身のラストシングルに選んだ。
9thの表現に身が入らなかったのは、そのためではないだろうか。

そういう意味での、「もう一緒にやれない」なのかもしれない。


さいごに

映画は創作物であり、作り手の伝えたいことに基づいてできるものだ。特に今回のような類いのものは、意識的に観客の視線を操作することもできる。
よって、私達が観たものはほんの一面にすぎない。
全てを知るのは当事者だけだ。


それでも、“事実を基に推察する”ことは可能だ。
自分なりに考えることが大切だと、私は思う。
だからここに私の正直な考えを綴った。


平手の存在を二元論的な善し悪しで表現はできない。
平手が居たから今の欅があり、たとえ居なくとも別の形でグループは存在していた。

こうなることは寧ろ必然であったのだ。


そしてこの物語は、ここから大きく転換する。

彼女達自身が希望する道に進んで欲しい。
私も、その道を見守っていくつもりだ。


平手が残してくれたモノをどうするかは、彼女達次第だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?