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『会わないほうがいい』

メールだけの、小さな恋のお話です。


『自伝を出版したいです』
私はあるウェブサイトで公募をした。
それは、知識、スキル、経験などを出品したり購入したりできるサイトである。
内容はこうだった。

「2年ほど前に夫が脳溢血で急死しました。その後、夫の不倫の発覚や、他にも色々な事があったので、起きた出来事やその時の気持ちを書き留めておきました。すると、立派な自伝が出来上がりそうだと思ったので、小説家気取りで書いていたら、12万文字くらいの長い自伝が出来上がりました。」

「ただ、自伝や小説を書いたことのないど素人ですし、書き方もよく分からないし、そもそも本をあまり読まないタイプなので、自信がありません。でも、できれば出版をして、多くの方に読んで頂けたらと思っています。誤字脱字の訂正だけではなく、人に読んでもらえる文章にしていただけると有り難いです」

 すると、数時間のうちに次々と提案が入ってきた。
 だが、そのほとんどは自分のPRと値段の話だけで、添付した実際の文章を開いて読んでくれたのだろうかと思う内容ばかりだった。

 もちろん、依頼内容は文章を読んだ感想ではなく、文章の校正なのだが、小説のような文章を書くのは初めてのことで、その文章が人々に相手にされるようなものなのか不安で、心臓が飛び出るような気持ちで公募したのだ。
 少しは読んだ感想が欲しかったので、あまりのビジネスライクな雰囲気に落胆した。

ーー ネットの世界なんてこんなものか……



 ところが数日後、それまでとは違う雰囲気の人から提案が入った。
 グラフィックデザイナーが本業で、文章の添削の仕事もしているというその男性は、ニックネームを名乗り、顔を明かさない登録者が多い中、会社名と実名を名乗り、アイコンに本人の顔写真が載っていた。
 そして、自己紹介の後に、文章を添削する上での大事な事が書いてあり、夫が亡くなった事に対する同情の言葉や、長い文章を書いた事に対する労いの言葉があり、それを読んだ感想も述べてあった。
 私が言って欲しかった言葉が全て書いてあるようだった。いやむしろ、それ以上だった。
 私はホッとして、涙が出そうだった。

ーー この人に決めた。この人以外には考えられない。

 募集期間を1週間に設定していたが、早々に募集を打ち切り、その男性に本の校正の依頼をした。
 そして彼との、そのウェブサイト上でのメールのやりとりが始まった。



 私はその時、ちょうど50歳で、彼は66歳だと明かした。
「私より、ひと回り以上も年上か。さては昔の写真を使っているな」と思った。
 彼のプロフィールの顔写真はどう見ても50代位に見えたからだ。

 メールで連絡を取り始めると、彼は私が想像した通り、あるいは想像以上の人だとすぐに分かった。
 連絡はマメで、文章の校正は早くて的確、誤字脱字の指摘だけでなく、文章がわかりやすいか、読者に真意が伝わるか等をちゃんとチェックしてくれた。
 その上、登場人物の相関図、周辺の簡単な地図、年表を、「こういうのは私の得意分野だから」と追加料金なしで作ってくれた。

 文章の分かりにくいところをどうするか、相関図等をどんなふうにするかを話し合ったり、本のタイトルや表紙について相談したりした。
 私が時間が取れない時は作業がなかなか進まなかったり、彼は彼で他の仕事も同時進行しているから、何でもすぐにという訳にはいかない時もあった。
 そして、2ヶ月以上のやりとりをして本の原稿が完成した。

 彼はその間、常に優しく、丁寧で、自分の意見をきちんと言うが、全くの素人である私に対して押し付けがましい事は無く、「表現は人それそれだから、どうするかはご自身で決めてくださいね」という感じだった。

 私は彼にすっかり癒されて、心を許し、メールのやりとりの中で、日常の出来事や、夫や不倫相手に対する心の変化なども話すようになっていた。
 彼はそれに対していつも丁寧な返事をくれたし、労いや励ましの言葉を欠かさずに言ってくれた。
「私はこんな感じですよ」と言って、私は自分の顔写真を送ったりした。

 毎日、彼からメールが来るのが楽しみになった。
 そして途中からは、彼に褒められたくて私は文章の修正を頑張っていた。



 彼は一人暮らしをしていた。と言っても、独身では無かった。
 20代の頃から奥さんと付き合っていたが、お互いの家族や仕事の都合で一緒に暮らすことが出来ず、最初から別居が条件で結婚したのだそうだ。
 彼は中国地方のあるところに居て、奥さんは関東地方のあるところで自営業をしていた。彼らに子供は授からなかったそうだ。
 ちなみに私は北陸地方に居て、飲食店でパートタイマーをしていて、小学生の息子がいる。

 最初の頃のメールで、私の夫が脳溢血で亡くなったという話から、彼の母親も脳溢血になり、その後、何年も植物状態だったという話を聞いていたので、色々と大変な事情があったのだろうと思った。

 でも、私が彼の奥さんの立場だったら、別居したまま結婚は無理だろうなと思った。
 私は好きになったら毎日会いたいし、一緒に住みたいし、結婚したいと思うタイプだ。
 それに、元々わがままだから、家族を見捨てて、好きな人のところに何が何でも行くだろう。
 だが、彼らはそれぞれの家族を大事にしつつ、お互いに離れていても、私が想像も出来ないほどの強い絆で結ばれている関係なのだろうと思った。

 彼が奥さんを大切にしている事は、メールをしていても伝わって来た。
 本の校正の仕事を依頼した時も、「妻が仕事を引き受けることになった事を喜んでくれました」と言っていた。
 それから、毎日、電話で奥さんとその日一日の出来事を話していると言っていた。日々のメールの中にも奥さんの話が時々出てきた。
 旦那さんがこんな感じなら、仲の良い、素敵な夫婦なのだろうと思っていた。

 ある時、週末に奥さんが久しぶりに彼を訪ねてくるので、返信が少し遅くなるかもしれないと言われた。
 「全く急いでないので、私の件は気にせず、奥様とゆっくりして下さいね」と返事をした。
 その頃は本心からそう思っていた。



 だが、本の原稿がほぼ出来上がり、彼から「あとは出版するだけですね。出版が無事に終わりましたら、お仕事終了の確認メールを送らせていただきますのでご連絡下さい」とメールが来たのを見て、心臓がドキッとした。

ーー そうか。もう終わるんだ…… それは困る。そんなのは嫌だ。

 私は彼のことが本当に好きになっていたのだ。

 私は慌てふためき、どうしたら良いのか考えた。
 そしてメールを送った。

「私の本を一冊お送りしたいので、住所を教えていただけませんか?」

 そのサイト上で住所や電話番号等の個人的な情報のやりとりは禁止されているので、事務局に問い合わせてみるということだったが、今回だけ許してくれたそうで、数日後に住所を教えてもらった。

 私は早速、自分の本を購入すると、手紙にお礼の言葉と、自分の住所と電話番号とメールアドレスを書き、本の間に挟んで彼に送った。
 その間も心臓がドキドキしてばかりだった。

ーー 私は一体どうしちゃったんだろう。なぜ、こんなにも慌てているのだろうか。

 数日間、祈るような気持ちでいたが、私の個人のメールアドレスに彼からメールが来た。

「本を送っていただいて、有り難うございました。個人のメールアドレスを教えていただいたので、こちらにご連絡しました。」

ーー 良かった! これで個人的に繋がった。これからはいつでも連絡ができる。

 それまでは、そのウェブサイト上のメールでやりとりをしていたので、仕事が終われば普通は連絡しなくなるのだが、これで彼の個人的なメールアドレスを知ることができた。
 それからは、そのメールアドレスに、何かと用事や相談事を見つけてはメールを送った。
 仕事の話では無いので、私からメールをしても、返事が来るのはせいぜい翌日か、翌々日だった。でも、私は返事が来るとその日のうちにまた返事をしていた。

 もう仕事は終わったのに、頻繁にメールをしてくる私に対して、どう思っているのかは分からなかった。
 私の気持ちに気付いていたかも知れなかったが、彼には気付いていたところでどうしようもないはずだった。
 ただ、彼はいつものように優しく、誠実で、丁寧な返事をしてくれた。



 その頃になると、私は街を歩いていても、60代とおぼしき男性に目が行くようになった。

ーー 彼の見た目はこんな風だろうか。それとも、あっちの男性みたいだろうか……

 自分の変化に自分で驚いた。
 それまでは、どちらかというと若い男性に目が行っていたからだ。

「もう独身なんだから、もしパートナーと言えるような人が現れるとしたら、若い男が良いよね」

 少し前までは、周りにもそう話していた。
 自分が50歳過ぎのおばさんで、相手にしてくれる若い男性がいるかどうかはどこかに置いておいた。

 私は若く見られるほうで、亡くなった夫は3歳年下で、その前に付き合っていた人は6歳も年下だった。
 それに、私はもう二度と、相手が倒れているところを発見したり、葬式を出したりしたくなかった。
 だが、成熟した年配の男性の良さに気付いてしまったようだ。



 ある時テレビで、彼が住んでいる地域でコロナウイルスの新規感染者が爆発的に増えているのを見た。

ーー そう言えば、最後に彼にメールを送ってから3日経っている。ひょっとしたら、コロナウイルスに感染して入院しているのだろうか。入院しているのならまだ良いが、一人暮らしだから一人で倒れているんじゃないだろうか。

 気になって、メールを送ってしまった。

「度々メールしてすみません。そちらでコロナ感染者がすごく多いので心配しています。ご無事なら良いのですが…」

 すると、20分後に連絡があった。
 3日前に私から送ったメールの内容一つ一つに、丁寧に返事をしてくれていた。
 私から連続でメールが来たので、彼が慌てて、あれだけの長いメールを急いで打って、送ってくれたのだと思った。

ーー しまった! また迷惑をかけてしまった。しつこいと思われなかっただろうか……

 すると、数時間後にまたメールが来た。

「ご心配いただきありがとうございます。さっきはこのメールに気づかずメールしてしまいました」

 それを見て、突然、涙が止まらなくなった。
 偶然に決まっているのに、同じような時間にお互いにメールを送ったような気がして、私の気持ちが彼に伝わってしまったような気がした。

ーー なぜ、こんなに切ないのだろう。なぜ、こんなに好きになってしまったのだろうか。



 私はだんだん苦しくなり、どうした良いのか分からなくなった。
 そして、一度でも良いから会ってみたくなった。

ーー 一度でも会えば、想像と違って、自分の勘違いだったと気付くかもしれない。そうしたら、どんなに楽になれるだろう。

ーー でも、逆に、会ってもっと好きになってしまったら、一体どうなるんだろう。

 ただの友人のふりをして、会いに行っても良かったのかも知れない。
「気軽な一人旅でこっちの方面に来たから、ついでに」と言えば良いのだ。
 だが、現実に会うことは難しかった。

 私に与えられた自由な時間は、息子が小学校行くために家を出てから、帰ってくるまでの8時間位しかない。飛行機や新幹線に乗って数時間もかかる彼のところに、日帰りで行くのは無理だった。
 姉夫婦に息子を預けられなくはなかったが、なんと理由をつけて預ければ良いか分からなかったし、後で、好きな男に会いに行くためだったとバレたら何を言われるか分からなかった。
 それに何よりも、私はパニック障害を患っているので、飛行機や新幹線に乗ることがとても困難だった。

 もし、車で1、2時間で会いに行けるような距離にたまたま彼が住んでいたら、100パーセント会いに行っていただろう。
 夫の不倫であれほど苦しんだ私がこんな風に思うとは、人の事は言えないなと思った。 
 亡くなった夫や不倫相手をあれほど恨んでいたのに、その気持ちが完全にどこかに飛んで行ってしまった。



 そして、もう彼にメールを送るのをやめることにした。

 彼からメールの返事が来ると、一瞬は嬉しいが、そのあとすぐに寂しくて苦しい。
 でも、メールのやりとりをしなくなるのも、寂しくて苦しい。
 だったら、メールを送るのをやめて、早く忘れたほうが良い。
 そう、結論づけた。

 最初は、このまま彼にただメールを送らないことにしようと思った。
 だが、それでは今までお世話になり、いつも丁寧に返事をくれる彼に失礼ではないかと考え直した。
 それに、今まであれだけ頻繁にメールを送っておきながら、私が急にメールを送らなくなったら、「何かありましたか?」とか、「私が何か失礼な事を言いましたか?」と彼は言ってくるに違いないと思った。
 それではあまりにも申し訳ない。

 だから私は、最後に彼がメールをくれた内容に全て返事をして、最後にこう付け加えた。

「今までたいした用事も無いのに、とにかくお話したくて、ちょくちょくメールを送ってしまってすみませんでした。それなのに、いつも丁寧にお返事をくださって有り難うございました。本当に優しくて、魅力的で、素敵な方ですね。このままでは、飛行機に乗って会いに行ってしまいそうでした」

「めぐり会えて本当に良かったです。これから先、奥様と幸せに暮らせると良いですね。お二人の幸せを心から祈ってます。今まで、本当にありがとうございました」

 これで、もうメールしないという事と、その理由を分かってもらえるだろうと思った。
 メールを送信しながら、涙が出た。

 1時間後に彼から返信が来た。

「ありがとうございます。ですが、私はそんなたいした人間ではありませんよ(笑)。もし将来いつか、こちら方面に来られることがあれば、ぜひご連絡をください。こちらこそ、ありがとうございました。妻を大事にしていきます」

「最後のような感じですが、どうぞお友達の一人として、いつでも気軽にメールしてくださいね。遠い地から、お幸せを祈っております。もちろん何かあれば、ぜひともご相談いただければと思います。お待ちしております。それでは、また」

ーー『妻を大事にしていきます』か……

 そう言うだろうなと思っていた。やっぱり彼は思っていた通りの人だった。そういう彼だから好きなのだ。

 もし彼が「じゃあ、一度こちらに遊びに来ませんか?」とか、「どこかで会いませんか?」などと言ってきたら、男性の下心が見えた気がして、気持ちが冷めたかも知れない。

 寂しくて涙が溢れたが、彼はそういう人なのだから仕方が無かった。

 やはり、彼には一生、会わないほうが良いのだろう。
 実際に会って、思っていたイメージと違って落胆するのも悲しいし、逆に、もっと好きになってしまったら、なおさら困ってしまう。
 この事は、このまま良い思い出で終わらせたほうが良いのだと思った。

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