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ケケケのトシロー 3 

ある日、妻の真由美におつかいを命じられたトシローはスーパーで万引き騒ぎを見かけ、言わなくてもいいことを言って、やんちゃな兄ちゃんに袋叩きに合いカツアゲされ、失禁した。それを見ていた不気味に笑う影のような男に己の情けなさを指摘され肩をおとす。仕方なく家に向かうトシロー。だが越えなければならない山はいくつもある。さあ、どうする? トシロー。

前回までのあらすじ

(本文約2600文字)

 マンションのエントランスに誰もいないことを遠目に確認してから、ぐっしょりとした股間に張り付くGパンを指先で引っ張り、股関節の可動域を確保しつつ、辺りを警戒しながらつま先走りでエレベーターホールへ急ぎ、昇るボタンを押した。エレベーターは生憎あいにく1階にはおらず、上の階から降りてくるようだ。

 誰かが乗っていたらどうする? すれ違うだけならわからんやろ。頭をペコりと下げて相手が先に降りたら、素早くターンして乗り込み、速攻で閉まるボタンを連打する。しかも相手に背を向けるようにして人相を隠す。いや、これは怪しいな。かえって相手に印象付けるようなものだ。じろじろと見られたら、ぐしょぐしょの明らかに色の変わった股間にも目線がいく。マズイ。
 
 昔の忍者はすいとんの術を使って敵の城とかに潜入した後、ぐしょぐしょのまま行動したのか? 動きにくいし、ボタボタと水滴を落としながら館の中を動いたらすぐにばれてまうやろ。着替えするんかな。『くノ一くのいち』も着替えるか ケケケ 

 うわ、さっきの変な奴の笑い方みたいや。うつったかな、気持ちわるっ!

 キコーンと音が鳴った。俺は後ろを向いて天井を見ているふりをする。隅のほうにクモの巣があるやんか、管理人さんに言うとかなあかんかな。

 子連れのどこかの奥さんが降りてきたような気配を感じた。幸い、こっちを気にせず降りたようや。チャンス! 素早く入れ替わりにエレベータに乗り込む。閉まる連打。 やった、侵入成功や。これであとは本丸に忍び込むだけや。

 エレベーターを降り、共用廊下をやはり左手で股関節可動域を確保し~の、突然に出くわすかものご近所さんの気配を気にし~の、自宅の扉にたどり着く。鍵、閉まってるな。そうか、北島さんの奥さん来たからか。ポケットから鍵を取り出し…… 

 あ…… 鍵持ってない…… 

 これはマズい、これはマズいぞ、「あーこわ~」なんて言いながら出て行ったから鍵を持って出るの忘れてるし。

 ピンポン押したら、当然、真由美が出るわな。
「あんたかいな、鍵持たんと出たんかいな」となるわな。
「大根は?」
「200円は?」
「なに? なんでズボン汚れてんの?」
「あんた―、情けない! 北島さん来てるねんで、恥ずかしい!」
 て、なるわな……

 どうする? トシロー、考えろ! 考えろ! って、鍵開けてもらうしかないやん。しゃーない。とにかく家に入らねば。
 俺はこの世の終わりのドアチャイムを押す。
 ぴ~んぽ~ん。なんとかろやかな音色。

「はい」 
 真由美、声がこわいぞ。

「あの、ごめん、鍵忘れて」
「あー、開けるわ」
 おっ、スムーズ、しかしまだ関所の前に立ったばかりだ。問題はこれからのやりとり。
 ガチャ、鍵を開ける音がする。扉はそのままだ。俺は扉を10㎝ほど開けて隙間から覗く。真由美のリビングへ戻る背中を見る。
 
 ああ、天は我を助けたもうた。真由美と北島さんの笑い声が聞こえる。俺は猫の足音で寝室へ向かい、着替えと自分の財布と鍵を持ちムーンウォークで玄関まで行き、滑るようにまた外へ出た。なぜムーンウォークだったのかは、あまりの自分の手際の良さと幸運に高揚してたせいだろう。

 さ、これからは時間との闘いだ、まずエレベーターに一人で乗る。一階までの所要時間はざっと10秒、その時間でズボンとパンツを履き替える。難易度はGだが、靴と靴下は脱いで、チャックを下した状態でエレベーターに乗り込めばギリギリ可能だ。運よく1階に誰もいなければその時間はプラスに働く。大丈夫。
 あっ、着替えて家、出ればよかったんとちゃうの…… くそ、いまさらしゃーない。

 それからコインランドリーに寄って、洗う暇はないから、とにかく乾燥機だけかける。乾いてたら家の洗濯かごに入れててもごまかせるやろ。

 そしてその10分くらいの間にスーパーへ走り、大根を買う。そして乾かしたズボンと下着を取り家に帰る。何食わぬ顔で洗濯かごにズボンと下着を…… いや、待て、着替えてたら、おかしいな。

 えーっと、家に帰ってもう一回このズボンとパンツを履き替える。今、履き替えたズボンは明日、しれーっと履けばいい。パンツは風呂上りに履き替えればいいな。

 よし、完璧な作戦や。これはやっぱ、あれやな、普段、小説のプロットとか考えてる成果やな。きわめて緻密なアリバイ工作や。今度は公募、入選するかな。ケケケ あれ、また気色悪いなあ、くそ!

 エレベーターは俺が降りた時のまま止まっていた、扉を閉め、ささっと着替え始める。途中で止まることなく1階へ到着。チャックをあげるまでは間に合わなかったが、これまた運よく誰もいない。全てが俺の計画通りに時を刻み始めたのだ。辛い出来事はあったけど、俺に追い風が吹きだした。脱いだGパンとパンツを小脇に抱え、直線距離で推定200m離れたコインランドリーへ走る、走る、俺~。

 コインランドリーへ到着。息を切らしながらも空いている乾燥機を探す。お、空いてるやん。青春を、青春を投げ込んだぜ。なんやこの一文は、これは推敲で消すやろな。えっと10分100円、よし、200円で20分回せ、これで大根にも余裕が生まれる。

 やったで、完全に俺のイメージ通りや。あとは大根をスーパーに買いに行くだけや。20分ある。余裕やで。
だいこーん ♬ マイラブ♬ 今夜はあつ~く おれを~♬

 また、鼻歌を歌いながら、スーパーへ向かう。流石にあんな騒ぎを起こしてたんやから、あの兄ちゃんはもうあの店には絶対に居ないはずだが、あの俺を見捨てたおっさんがまだいたら、イヤミの一つも言ってやらんと。

 店に入って青果売り場を目指す。えーと、大根は、おお、一本170円か。
安いやん。200円でお釣くるやん。真由美にも「ええ買い物したな」って褒められるやん。ケケケ さいこー! 
 俺は心の中では渾身のガッツポーズではあるものの、小さく、誰にも悟られないように、決して悟られないように拳を握りしめた。

「お、さっきのジジィ、やっと大根買うんか? 財布はもってきてるんやろな」
 
 聞き覚えのある声と乾いている筈の股間の湿り気が蘇る。

 ろくろ首の兄ちゃんの顔が俺の肩越しにまた現れた。ニラ餃子の香りと共に。



4へ続く


エンディング曲

NakamuraEmi 「Don't」



ケケケのトシロー 1
ケケケのトシロー 2


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