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シネマトグラフ 

「僕」はいつ始まったんだろう。
始まりはとてもぼんやりとして。
記憶はあったが隠したのか、消えたのか。
いつの間にか僕はいて、徐々に作られていくうちに「僕」に気付いた。

 僕の記憶の一番古いものは、母の泣いている姿。
何も持たずに玄関で履物をはき、出ようとしていた。
確かにこちらを振り向いたはずだ。
泣いていたのに笑っているように見えた。
格子引戸が、がららと鳴り、また、がららと啼いた。
ぼんやりとした灯が向こう側の母を照らす。

 訳も分からず僕は何かを叫んでいた。
母は向こう側で何かを言った。
何を言ったのかは覚えていない。
周りに誰がいたのかもわからない。
おもちゃのシネマトグラフのように、覗き見る小さな世界でそこだけが切り取られ繰り返される。

 次の記憶の中に母はいた。
真っ暗な四畳半ほどの部屋に僕は突如、目をさます。
暖かさも寒さもない中で、僕は重い布団から顔だけを出している。

 ふと横を見ると母は父に組み伏せられていた。何か悪いことでもしたのだろうかと思い、僕は強く目をつぶった。

 音も声も匂いもしない時間が過ぎて母の気配だけを横に感じた。
そしてようやくすすり泣く母の声が聞こえた。
それでも僕は目を開けなかった。

 次の記憶にはもう父はいなかった。
そして僕は僕を意識できる年月を暫く過ごした。

「氷が欲しい」
耳を口元に近づけないと聞こえない声で母は言った。
明るすぎる部屋は残酷な風景を色鮮やかに留めようとし、その成果は間違いなく刻み付けられた。

 アイスボックスの氷を自分の歯で噛み砕き、米粒ほどになった氷を母の口に入れてやる。

「冷たい?」
「冷たい」
 母はそれ以上話さなかった。

 母の記憶が今終わったと感じた。
そして僕の記憶はそこだけがまた繰り返される様になった。

 どんどんと僕の始まりは不確かになっていく。
いずれはそれも終わるのだろうが。

 暑い夏は今までにもあった。凍える冬もあった。
あの時はどうだったのだろう。

 シネマトグラフに空は映っていない。咲き乱れる花も映っていない。
ただ映るのは切り取られたものだけだ。

 それでも僕は覗き見る。
 ただ繰り返し覗き見る。


 


「こころ」萩原朔太郎 作曲・歌 遥奈








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