20230704 メモ:「Fラン大学就職チャンネル」試論

解説系クリエイターとしてはジャンル史に残るレベルで強い固有名である「Fラン大学就職チャンネル」について考えるとき、その世界や人物がほとんど「いらすとや」で描かれていることは重要に思える。なぜなら、「いらすとや」で描かれるキャラクターは、彼が「何者」であるか──あるいは、「何者でもない」のか──を、一目で伝えるのに最も特化された人間像だからだ。そして数ある「いらすとや」のイラストのなかで、世界から最も求められ、使用されているのはまさに「何者でもない」匿名的な男や女の絵なのである。それは、変な自我を主張せずただ社会に順応してくれる「何者でもない」労働力を求める雇用者がマジョリティの労働市場と相似形だ。
実際、「Fラン大学就職チャンネル」が最も輝いているのは、何者でもなく、これからも何者かになることは一生ないだろう若者の末路を戯画的に描いているときであり、それを手を変え品を変えで一生反復し続けることによってコンテンツを大量生産している。困窮者によるスーパーチャットの相談コメントを冷笑することで無限にネタを作り続けるひろゆきの雑談と構造は変わらない。あるいは「タワマン文学」を引いてきても良いが、通底するのは、リアリズムに基づき正当化された冷笑系の想像力である。

上の動画『同じ内定無し、同じ時間』において何より残酷なのは、3年3月次の同じタイミングで就活を始めた両者に、その時点で非常に大きな差がついているということだ。つまりは生活習慣や実行機能、コミュニケーション能力や人的資本、認知能力等の見えない部分において、左の男は圧倒的に貧困であり、なんでもないように見えて実は病的である。問題は、彼がその異常性──つまりはある種の主人公としての主題を抱えていながら、それを自覚せず頽落していき、適切な福祉的支援も救いの手を差し伸べてくれる他者も現れないというリアルに、どこまでも従順でしかない作家性である。

就活支援のリアル、そこで僕たちが目を背けているものに直視すること、は少なくとも就活というゲームのプレイヤーであれば有益かもしれない。そこで気づける自分の一部分もあるだろう。一方で、こんなものはクソだ、という気持ちを、忘れるべきではないような気がしている。生きたいように生きる、全てはその過程であり、一瞬で飛び越えていくハードルでしかない。では、そのハードルを一生反復し続ける呪いにかかった作家は、誰かの呪いを解く言葉を紡げるだろうか? 「Fラン大学就職チャンネル」の製作者が生きたかった人生とは、いったいどのようなものだったのだろうか?

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