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#8 TC療法1クールDay3から4なるほど悪夢かも

夜も更けたころ、前触れなく、激痛が始まった。慰みに、この未経験の痛みに相応しい形容詞を探してみる。
電気椅子に座らされて、味方のアジトの場所を白状するように迫られているスパイ。手足首に鎖、時々、鞭がしなるような強烈な電気刺激が、痺れを伴って、身体中を巡る。
そんなところか。
スマホも持てない。

意識を失っておきたいのに、鉄球で頭を、ごーんごーんと殴られながら、身体を揺さぶれる感じ。
ジョージ•オーウェルの『1984』の拷問シーンとか(しかし、ワタシは断じて、ビッグブラザーを愛してはいない!)、辺見じゅんの『ラーゲリから来た遺書』の、赤チュリマの刑を思い出して、こうゆう感じかなと、納得する。
少し、慰められる。

昨日までは、ケロッとしていて、すき焼きだって食べられた。その後の急転直下。こんな酷い痛みが来るなら、確かに、抗がん剤治療は毒だ〜!と言いたくなる気持ちも、わからなくはない。

が、ワタシの医療への信頼は揺らがない。こういう痛みが起こる、とちゃんと聞いていたし、がん細胞を撲滅する治療というのは、主作用も副作用も強い。どうしても過酷なものなのだ。怪しげな魔法の水なんかと同じに考えてはいけないんだ。
負けるもんか。
頑張らなきゃ。

少し、お薬を調整してもらって、届けてもらった。神経痛を軽減するデパスなど。早速服用する。
しばらくすると、いわゆる電気椅子の出力レベルは下がった様子。これなら、耐えられそうだ。

良い兆候もある。
右腎の水腎症はすっかり治ってしまったようだ。この数日で4キロぶんの浮腫が取れた。
緊急入院のとき、撮影した画像には、右腎が、異様に膨れ上がっていた様子が写っていた。手術から僅か数ヶ月の間に、5センチに育った再発がんの腫瘤が、尿道を圧迫して詰まらせてしまった結果だった。

画像で見たそれは、左腎のそら豆とは似ては似つかぬ、巨大さて、半切りのバームクーヘンのテッペンを押し潰して、ひしゃげた形をしていた。

身体の中には、各臓器が、ある空間、空間に配置されて、それぞれが、精密なバランスを保って、絶妙に繋がりあっているのだ。改めてのことに、ひどく感心する。
そういえば、先生が、
身体の中には、空間があるから、手術が出来るのです、とおっしゃっていた。

腎臓と言えば、みんなが大好きセレーナ•ゴメスが、持病の全身エリテマトーデスが悪化した折、生死に関わる状況に陥り、その場に居合わせた親友から腎臓移植を受け、一命を取り留めたという。
たとえ、どれほど大切な友達であっても、自分の、二つしかない腎臓の一つを差し出せるものだろうか。家族や愛する人に対してなら、出来る。でも、ワタシが、その場に居合わせたとして、友人に対しても、祈りこそすれ、同じような愛の行為が、出来るだろうか、、、?


4日目は、文字通りの寝たきりだったが、全身電気椅子のビリビリ具合にも少し慣れてきた感じがする。

横になっているベッドから、隣の部屋にかけてあるゴッホの複製画が見える。
ゴッホは、彼の晩年、弟のテオに宛てた手紙の中で、こんな言葉を綴っている。


僕にあともう一年、仕事が出来たら、芸術の上で、おそらく、自分なりの核心に辿り着けるだろう。過去の画家達の価値や独創性には及ばないにしても。それでも。そうだ。僕は何者かだ。僕には何かが出来るのだろう。僕は敢えて、自負を感じている。

2023年 SOMPO美術館 ゴッホと静物画展 音声ガイドより


恩師の榊原清則先生の姿と、重なる。
最後まで、核心への旅を進め、後進に限りない愛情を持って、教育されていた。お命を削りながら。

自分の道を、ひたと見つめ、並外れた努力を重ねているあの人達は、なんらかの核心を目指しているように見える。その姿は、やはり、胸を打つ。愛と尊敬を持って、その人のために、何か、自分も役に立ちたいと願う。生まれてくるのは、そんな気持ちだろうか。

いろんな人が、デコとボコが、補い合って、生きるのが、社会だ。
微笑みは愛の始まり、愛が生まれれば、誰かに何かをしてあげたくなります、とは、マザーテレサの言葉。

自分の身体を離れて思索に遊ぶことは、五感に突き刺さる痛みを、少し、和らげてくれた気がする。
世界が幸せでありますように。

写真は、文中にも引用した東京新宿のSOMPO美術館のゴッホ展の記念写真。芸術家の人生には、複雑に、憧れる。









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