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ひとりで生きるのは寂しいのか?結婚とは何か、人と生きていくとは何か、ひとりで生きていくとは何か???

総務省が公表した2019年の人口動態統計月報年計(PDF)によると、
2019年の日本の婚姻件数は59万8965組。
前年の58万6481組より1万2484組増加し、
2012年から減少し続けていた婚姻率が7年ぶりに増加した。
改元を機に結婚する「令和婚ブーム」のためだという。

晩婚化や少子化、
女性の社会進出やアラサー・アラフォー独身なんちゃら、
そしてお一人様という言葉が一般化したように思える日本で、
60万近くのカップルが夫婦となっている。

数字だけ見ると世の中には意外と夫婦というものは多いように感じるし、
もしかしたらいまだってお一人様が珍しい世の中なのではないかとも思う。

大豆田とわ子と三人の元夫」はフジテレビ系2021年春クールの
ドラマで、「東京ラブストーリー」から「Mother」、
「世界の中心で愛を叫ぶ」や「花束みたいな恋をした」など
その時代の名作と呼ばれる作品を世に送り出してきた
脚本家・坂本裕二の最新作だ。

最終回が終わると、
「とわ子ロス」がTwitterのトレンド入りするなど、
テレビ離れが進む現代で
確実に一定数のドラマ好きの心を掴んだ作品であった。

松たか子演じる主人公の大豆田とわ子は「バツ3」であり、
元夫たちとの関わりを避けている。
それでいて現在進行形で元夫たちはとわ子に関わりを持とうとする。

その四人のなかで起きる出来事を中心に、
結婚とは何か、
人と生きていくとは何か、
そしてひとりで生きていくとは何かを

妙味のあるセリフたちとともに描いた作品だ。

テレビっ子でありドラマっ子である筆者も、
社会人になって地上波の作品に疎くなった今日この頃であるが、
このドラマのおかげで
久しぶりに毎週火曜日21時というゴールデンタイムが楽しみになった。

もちろん、残業でその時間に間に合わない日は見逃し配信。
好きなドラマを見るためにダッシュで帰宅していた小さいころの
私に教えてあげたい。

むかしと違うのは次の日の朝、
昨晩のドラマについて話す人はいないことで、
これが社会人というものかと寂しくなる。

自己紹介って要ります?
慎森の言葉が表したこと

一話目で描かれていた中村慎森(以下、慎森)は、
とわ子の住宅設計会社の顧問弁護士であり無駄を嫌う性格、
そして彼の独特のロジックがいちいち入る長い言い回しによって
彼の周りから自然と人がいなくなるという外面的な要素であった。

だが、回を重ねるに連れて慎森の優しさをうまく表現できない
不器用さや、ここぞというときに相手の心を突いてしまう
真っ直ぐさが描かれ、彼の虜になった視聴者も多くいるだろう。

そんな彼の放った言葉で印象的なのが
自己紹介って要ります?」だ。

第六話、とわ子があることで姿を消し、
そんなとわ子を心配した元夫たちが集まった場所に、
偶然現在三人の元夫たちが関わりを持つ女性たち三人も現れ、
六人で乾杯をするという、
文章にするととてもシュールなシーンで放った言葉だ。

知らない人と知っている人が混在する
シチュエーションでの自己紹介は当たり前。
なんとなく流れ的に常識とされていることに対して
わざわざ「自己紹介って要ります?」と慎森は言ったのだ。

その言葉の後たとえ話が始まり、
最後に「30年間自分と一緒にいる自分ですら自分をわからないのに」と
続いた。

よく聞くといいことを言っているような慎森だ
(それをいま言う必要もなく、
ただの自己紹介と片付ければ簡単なことにいちいち
着眼してしまうキャラクターなのである)。

大抵のドラマは主人公を中心に、
周りの人を含めその人物がどのような人なのかを描いていき、
そのなかでさまざまなエピソードが起きる。

それを視聴者が見て、
「ああ、この人はこんな人なんだな」と
それぞれ感じたり人物をそう見せる特徴的なシーンを
描いたりするのだが、
このドラマはその当たり前を特別にした。

なぜなら、主人公であるとわ子の特徴的な人柄を描かないからだ。
とわ子を囲む人々はこのシーンで表されている通り、
自己紹介など必要のないくらい色濃く人物が描かれている。

とわ子に対する気持ちの変化や何かに影響されて
変化した行動など鮮明に繊細に写されている。

だが、とわ子に関してだけは多くを語られず、
表現されず、
あえてとわ子の身に起った小さな出来事として片付けられている。

多くの視聴者は
このドラマのそんなところに歯痒さと
心地よさを覚えたのではないだろうか。

Z世代ではSNSをしていることが当たり前になり、
そのSNSのなかでは常に自分が何者なのか、
プロフィールがあるうえで発言をする。

自分はどんな立場でどんな人なのか。
どんなものを食べてどんなところへ行ったか。
この慎森の言葉は、
私たちが常にどこかで自己紹介をしているように
生きていることを気づかせてくれる。

また、本当は自己紹介など必要ないくらい、
私たちは私たちを色濃く生きている気がする。
そしてとわ子がさまざまなシーンにおいて、
元妻なのか母なのか娘なのか一人の女性なのかを
具体的に描かないことで
私たちはいつでもとわ子になったように、
とわ子の周りの人々を見ることができた。

自己紹介はできないけれど恥ずかしい話はできる。
まめ夫で生きる人々の姿

第七話でとわ子の親友であるかごめが亡くなった後、
とわ子は毎朝のラジオ体操で
オダギリジョー演じる小鳥遊大史(以下:小鳥遊)と出会う。

ひょんなことから二人きりで会話をすることに。
とわ子は嫌なことがあるたびに数学の問題集を解くという趣味があり、
小鳥遊は大の数学好きという共通点から数学について話しだす。

小鳥遊は数学が好きすぎるあまり、
とわ子の反応を気にすることなく話しすぎてしまう。
途中でそのことに気づいた小鳥遊は、
とわ子の好きなものの話を聞きたいと促し、
とわ子はかごめの話を始める。

ここまでの流れで二人は一度も自己紹介をしなかった。
初めて顔を合わせたわけではないにしろ、
自らがどんな人間なのかを名乗らない
(だからこそ、この後の展開に効くのだが)。

自己紹介するよりもまず、自分の好きなことを話す。
そして肩書きや名前よりも、
時間が経って仲よくなった後に話すような
“ちょっと恥ずかしいこと” を二人は話せてしまう。


いつの時代も人間の生きる場面が変わるたびに、
その人自身の立場や肩書きも変化するものだ。
けれど、現代はどの瞬間でも違う自分として振る舞う手段がある。
SNSだ。


Twitterでは本音を呟き、
Instagramでは人にこう見られたいと思う自分を見せる。
そしてもし現実世界で嫌なことが起きても、
ネットの世界へ入れば違う自分になれる。

いつだって私は何者かを意識しながら生活しているのだ。

自己紹介はいわば「こう見てくださいね」という
着ぐるみを被った状態で他人と接すること。
距離が縮まるにつれてその着ぐるみを脱いでいくのが
現代の人間関係であるし、
もしかしたら着ぐるみを全部脱ぐ日は来ないかもしれない。


けれど、まめ夫で存在し生きている人物は
自分自身でしか生きいられない。
二番目の元夫佐藤鹿太郎(以下:鹿太郎)は
隠そうと思えば隠せる器の小ささや胸の内を真っ直ぐ人に
伝えてしまう。

自己紹介をし、こんなふうに見られたい
という自分の着ぐるみを持たずして、ありのままでいる。
その苦しみや面倒臭さですら彼らは受け入れている。
その代表的な存在がとわ子だった。

ひとりで生きる。その言葉の意味とは

「ひとりで生きていけるけど…」

まめ夫のテーマであるこの言葉に答えが出たのが、第九話。
とわ子は慎森からとわ子の本当に愛する人は一人目の元夫、
田中八作(以下:八作)であると言われ、
小鳥遊からのプロポーズを断り八作の営むレストランへ行ったときの
ことだ。

「ひとりでも生きていけるけど、
まあ、寂しいじゃん。
寂しいのは嫌だけど、
でもそれで誰かと二人でいたって
自分を好きになれなかったら結局ひとりだしさ。
好きになれる自分と一緒にいたいし。
ひとりでも幸せになれると思うんだよね」


八作に対してこの言葉を放ったとわ子。
そしていまでも好きだと打ち明ける。
その言葉の最後には、こう話した。

「あなたを選んで、ひとりで生きることにした」

他人にこう思われたいという着ぐるみを着ないとわ子は、
誰かと一緒に生きることで好きじゃない着ぐるみを着た
自分になるよりも、
ひとりで生きることで好きな自分として生きていきたいという。


それは、本当にひとりで生きることではなく、
自分の好きな自分と一緒に生きてくれる人々を選んだと
いうことに過ぎないのだ。

とわ子は誰よりも自分という人間は
一種類じゃないことをわかっている。
だからこそ誰かと一緒に生きたとき、
その一種類の自分でいるためにほかの自分に
着ぐるみを着せることをやめたのだ。

どんな種類の自分でいても生きていける、
そのためにひとりで生きることを選んだのだ。
そんな誰かを選ばずにひとりで生きていこうするとわ子がいるから、
周りの八作や鹿太郎、慎森、小鳥遊も自分の好きな
自分でいられるのではないだろうか。

そしてとわ子にとってのそんな存在が親友である
かごめだったのではないだろうか。

ひとりで生きていく。
現代に生きる私たちはこれを寂しいから、
苦しいからとどうしても避けて生きようとしてしまう。


けれど、一見幸せそうに見える
この“誰かと生きる” ということは、
自己紹介プロフィールを胸に貼り付けて誰かと接したり、
こう見られたいという着ぐるみを着て生きていること。
これは何よりも寂しいことなのではないだろうか。


まめ夫で語られる、
“ひとりで生きる” ということは
誰にも関わらずに生きることではなく、
“好きな自分を生きる” ということ。


言い換えれば、好きな自分でいるための
アプローチがひとりで生きるというだけなのだ。


私たちがとわ子から学んだこと。
それは、ひとりで生きることが寂しく悲しい生き様ではなく、
自分を幸せにする手段のひとつだということだ。


私も少しだけやってみようと思う。
名前や年齢、職業よりも先に私の好きなものを、
初めて会った誰かに話して見ることを。

その行動ひとつだけで現代に生きる私たちは
少し幸せに、楽になれると、とわ子が教えてくれたのだから。

あなたを選んで、ひとりで生きることにした

2040年には世界で断トツ一位のソロ大国になる
独身者が50%を超え、高齢者が30%、そして・・・
両親がそろって子供と家庭で過ごすのはわずか20%という
国が日本になる

「ひとりでも生きていけるけど、
まあ、寂しいじゃん。
寂しいのは嫌だけど、
でもそれで誰かと二人でいたって
自分を好きになれなかったら結局ひとりだしさ。
好きになれる自分と一緒にいたいし。
ひとりでも幸せになれると思うんだよね」

ひとりで生きていく。
現代に生きる私たちはこれを寂しいから、
苦しいからとどうしても避けて生きようとしてしまう。
・・・これが現在の結婚に多いのかも知れない!

この“誰かと生きる” ということは、
自己紹介プロフィールを胸に貼り付けて誰かと接したり、
こう見られたいという着ぐるみを着て生きていること。
これは何よりも寂しいことなのではないだろうか。

それで、今度は離婚する
“ひとりで生きる” ということは
誰にも関わらずに生きることではなく、
“好きな自分を生きる” ということ。

好きな自分でいるための
アプローチがひとりで生きるというだけなのだ。

これらの具体的なひとつの形が
寺婚サロンが当初より提案してる「別居婚」であり「週末婚」だと
思う

ひとり生活と結婚が同居した形だと思う
そして、「別居婚」「週末婚」を前提とした婚活キャンペーンも
始めている

そしてネットで人脈と仕事を維持発展させながら
田舎で「ひとりで生活する」のが筆者が別サイトで
開発を始めている「新しい田舎生活の開発」なのだ





   オンライン寺婚サロン
         info@studio-show.com


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