ポジションを取らなかったのではない、批評家にしかなれなかったのである


「ポジションを取れ、批評家になるな。」

とよく言われるけれど、実際はそうなるしかなかった、って人は多いのではないか。

少なくとも私はそうである。


私も、自分がスポットライトの下に立つことを志向して頑張ってみたことがある。
でも、そこにはたとえこの人生を賭けたとしても越えられない壁があった。
通称、「限界を知る」経験。


これは自分の人生に対する一種の諦めであり、敗北でもあった。
ただ、新しい道へ一歩踏み出す勇気でもあった。

そう感じた私は、至ってポジティブな感情で、裏方や批評家を志した。
やるなら、全力でやると決めて。

批評家を本気でやるのなら、作品を生み出す方々(クリエイターや演者)に対するリスペクトを忘れてはならない。

まず作品を生み出す方々がどんな気持ちで、どんなバックグラウンドでその作品に臨んだのかは少なくとも知っておきたい。
点ではなく線で見ることで、その作品への感度が高まることは間違いない。

そして何より、それぞれの方々の「こだわりポイント」を見抜くことが何よりも大切だと感じている。
なぜなら、それが作品を通して伝わっているか否かが、作品を生み出す側にとっては最も気になりどころなはずだから。

だから、何かを批評するとき、私は作品に対して対峙している感覚はない。
そこに関わるひとりひとりに最大限のリスペクトをもって、感謝を伝えているつもり。
ひとりひとりに誠心誠意向き合っているつもり。

それが私が私のこれまでの人生にできるせめてもの免罪符であったが、
今はそれ以上に、私の喜びであり生き甲斐になっている。


こんな私の複雑な感情をうまーく言語化していただいた映画がある。

『バビロン』(2022)である。

過激すぎる予告編とは裏腹に、
伝わってくるメッセージはシンプルかつ、美しい。

要は映画制作の歴史と、それに関わる者たちの人生をたった3時間で描いてくれているのだが、

その中のテーマの一つに、「演者と批評家のちがい」がある。しかもわりと重要な意味合いで。


映画の中にあるとおり、批評家はリスクを取らない代わりに、何者にもなれないし、当然後世には残らない。
それでも、私は、また次のいい作品づくりに少しでも私の意見が参考になるのなら、その営みができているだけで、幸せ!

かつて何かを諦めた先にあったのが批評家の道だっただけかもしれないけれど、
今その道を歩けていることに、とても感謝している。


とりあえず『バビロン』は勇気を出して観てみてください。

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