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【読了】「日曜日(付随する19枚のパルプ)」/福海隆著


いい作品を読んだ。
水の中を泳いでいるような心持ちだった。

登場人物たちと、作者、そしてわたし。

わたしは、小説にかんして話をするとき、技巧の話をするのはあまり好きではないのです。

だって、テクニックはあとからついてくるものだし、誰だって書けば書いただけうまくなると思うんです。だから本当に大切なのはやっぱりその物語の“核”になる部分で(当たり前だけど)でも、最低限のテクニックがあって「小説のかたちを成していて」初めて小説の“核”に触れることができて、だからその“核”に触れるためにはやっぱりテクニックも大切なんだなって、改めて考えさせられてしまいました。(自戒の念を込めて)

作者はこれが処女作のようで、つまりそれは“天才”なんですよね。残酷だなとも思いました。だって多分作者は描写のことも、メッセージ性のことも、テクニカルなことも、たぶん呼吸するように“わかる”人なんだなと読んで思いました。(だけど天才には天才の大変さがあるのだろうなとも想像しました)

あと、作者はきっと耳がいい人なんじゃないかな。わたしは、この小説を読んで、本当に技巧がどうとかこうとか考えずに、久しぶりに何も考えずに、手放しに、“物語”の中に入って“核”に触れられたなと思えました。気持ちがとても晴れやかに、楽になりました。

そしてそれを言い換えるとすると、“核に触れる”ではなく“泳ぐ”という感覚でした。この小説が絵だとしたら自分は絵筆として世界を“泳ぐ”。この小説が音楽だとしたら自分は音符として世界を“泳ぐ”。

そういう小説に触れた気がしました。“新しい”と表現するのも陳腐なんだけれど。だから気持ちがよかったのかな、読んでいるあいだじゅう。小説の内容云々ではなく、作者の世界を、作者と登場人物とわたし、みんなで泳いだのかなと思います。


選評に「れいちゃんが誰が読んでもイタイ」みたいなことがちらっと書かれていましたが、そうかなあ?とわたしは思います。「誰が見ても分かるだろう」みたいな人間って実はいないのになあって。なんていうか、うまく言えないんですけど。全然誰が読んでも分かる、じゃないからシンドイんじゃないかなあって。人間って、わたしたちの生活に肉薄してる“悪意”(のようなもの、その他ふくむ)って、このくらいのものだと思う。ありきたりでもないし、珍しくもない。これ以上でもこれ以下でもない。ぴったりこのくらい。だから苦しかったり、かなしかったりする。


あと思ったのは「かわいい」という言葉がたくさん出てくるのですが、これがすごくいいなあと。こんなシンプルな単語だけど、言葉だけど。「かわいい」の使い方がほんとうによくて、人間としてうれしくなりました。理屈ではなく、細胞のような部分でうれしいな、と感じました。シンプルだからこそ言葉は届いたり、傷つけたり、愛を伝えたり、するのだなあと。こんなストレートな言葉、改めて使わないじゃないですか。どうにかこうにかひねくりまわして、こねくった表現で、わたしは褒められようとしてしまう自分の浅ましさにハッとしました。そうか、言葉は、シンプルな言葉は、すごくいいもんなんだよな、と。使い方ですよ。それがこの作家のすごいところだなあって。


本当に正直な感想ですが、この作品を読んでマイノリティとかジェンダーとかを深く考察するという発想に全くならなかったというか。それは、この作品がとても普通の(褒め言葉です)いたってシンプルで、すごくすごくまっすぐで、素直なお話だなと感じたからだと思います。ありふれた静かさの中に宿る美しさや愛おしさが詰まったもので、大切な物語だなあと感じました。


誰かや何かを通して(時に踏み台にして)しか自己実現やカタルシスできない人もいて、まあそれはかわいそうだなあと思うけど、わたしにはそんな事情は関係ないなあっていつも思ってたんです。誰かがかわいそうな状態のときだけその人に優しくする人を見ていると。(うまくいくと少し機嫌が悪くなるの、おかしいよね。でもそれでもいいよ、って思ってました)


でもわたしはそういう人たちに対して「ああ、かわいそうにね」と逆に思ってしまいます。あなた、人間やってますね……みたいな。


文体でいうと、冒頭から体言止めがたくさん続いていて、それってあまり上手くない人がやると浮いちゃうんだけど、やっぱり才能のある人ってすごいな、ってただただうっとりしました。いい文体です。軽やかだし。なんか清潔で。やっぱり耳がいい人だと思うな、作者は。


ユーモアセンスがとても豊富で、言葉の使い方が巧みなんだけれど、まったく嫌味がないからすごく世界に馴染めました。素直だなとここでも感じました。


描写がとても細かくて精巧だから、自分もこの空間にいるような気がするという親近感があるのに、この作品が(2人が)全然読者の方を見ていないところが好きでした。この2人らしいなあって。(知らない人たちだけど)れいちゃんはちょっとこっちを見てたかもしれないけど。


作品が読者を意識しすぎている、作品がこっちを見過ぎている作品って読んでて疲れちゃうんだけど、この作品にはそれがなくて、わたしは遠慮なくこの作品世界を外から眺めていられた。(だって作品がこっちを見ていないからね)


それで、矛盾するみたいだけれど、作品はわたしのことを見ていないのに、わたしはこの作品に侵入させてもらうことができて、内側からも眺めることができて、作品の内側から、わたしの生きる現実世界を眺め返すこともできたりして、それがなんだかすごく気持ちよかった。とても。


看板のメッセージを見るために道を通る。母の味に違和感を覚えるほど恋人の味付けに慣れてしまったことに気付く。にこにこしてくれてかわいい。レジ横に貼られた年賀状。——生活というのはそういうものの堆積で、幸せやかなしみはそういうものものの堆積ですね。そういうものを切り取る作者なんだなと思って、わたしは作者をとても信頼してしまいました。人間として。


アラサーとかアラフォーとかアラフィフとか変な言葉が流行ったおかげで、老いに対してすっごく早くからわたしたちは恐怖にさらされて、まったくバカみたいだと思う。どうして老いることがこわいのだろうね。「わかってない」と思われることがこわいのだろうか。


絶対に悪い人もいないし、絶対にいい人もいない、ついた傷を点検しながら生きていくしかないんだよなあって改めて考えてしまいました。分かんないけど。でもとにかくみんな“大丈夫”になって欲しいな、とわたしは毎日思う。あ、自分もふくめてね。ていうかきっと、自分が一番“大丈夫”になりたくて、わたしにとっては小説っていうのはそのためにあって、この小説もすごくそういう作品でした。生活のものものを重ねて、小さな小さな“大丈夫”を重ねて、確認して、見せたり隠したりしながらわたしたちは生きていくんですよね、と改めて教えてもらった気持ちです。


生活や日常、人生や風景の数多あるものものを、福海隆という小説家が目と耳と鼻と口と肌で感じて、心のフィルターで濾過して、堆積した澱と浮遊する水を文字になおしたんだなあって、それがすごく伝わる作品でした。作品、というか、そういう小説家なんだなあというのが伝わってきました。この作家はきっとこれからもそういうものを見せてくださるんだなあ、と思うと楽しみでなりません。また好きな小説家が増えてしまいました。

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