「育てる」「教える」ことの裏に潜む、無自覚な「支配欲」

(2020年7月14日、タイトルをちょっと柔らかい表現に変更しました)


ぼくは一時期、農業のことを勉強していたこともあって、今では椎葉村の家で自給用+αの田畑を持っている。

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農業という世界において、作物をつくることは「育てる」と表現される。

でも、ちょっと待ってみてほしい。

本当に、人間は植物を「育てる」ことができるのだろうか?

今回は、この問いを出発点に考えてみたい。

植物を「育てる」ことと、植物が「育つ」ことの違い

作物をつくるときの、人間側の行いを挙げてみる。

・種を選ぶ
・畑を耕す
・種をまく
・草を取る
・収穫する

基本的にはこれぐらいだ。場合によっては、支柱を立ててみたり土を寄せてみたりという仕事も出てくる。

さて、ここで改めて考えてみたい。これらの人間の行動を通して、植物は「育てられて」いるのだろうか?
言い方を変えると、これらの行動がないと「植物は育たない」のだろうか?

ぼくの感覚では、ここにちょっとズレがあるように思う。

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種さえ落ちれば、植物は自分で育つ力を持っている。その種さえも、自然の営みのなかでは、風や小動物などによって何もしなくても運ばれていく。

ただ、あまりにも自然に任せると偶然の要素が大きすぎるから、適度に人間が関わることで種から植物が育つ確率を高めたり、植物が1列に並べることで作業性を高めたりする。

つまり、人間が植物の生育に介入することによって、その植物の一生をコントロールして自分たちに役立つように方向づけている

このコントロールする割合が高まっていくと、最終的に植物工場のようなものができていく。植物工場では人間の営み、つまり電気や水道がストップすると植物が育たないので、まさしく「育てる」という言葉がピッタリはまる。

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(写真ACより引用)

気になるのは、植物を「育てる」植物工場のようなやり方を選んだときに、ぼくたちのなかに「植物の一生をコントロールすることができる」、つまり植物を支配しているという感覚が生まれるのではないか、ということだ。

人を「育てる」ということ

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(写真ACより引用)

では、「育てる」対象が植物以外だったら?

「子どもを育てる」
「部下を育てる」
「生徒を育てる」

というように、人が人を「育てる」というときにも、もしかしたら「自分の思い通りに相手の成長をコントロールする」という感覚があるんじゃないだろうか?

そして、「他人に育てられて」育った人は、「自分で育つ」こと、つまり「自分がどう成長するかを自分で決めること」ができなくなるんじゃないだろうか?

少なくともぼくは、「自分がどう成長するかを自分で決めること」について、大学を出るまで考えたことがなかったし、大部分の人がたぶんそうなんじゃないかと思う。

逆に「自分で育つ」感覚を持っている一部の人は、いわゆる起業家や地域のプレーヤーとして目立っていて、他の大部分の人はその人たちをみて「へーすげー」と他人事のように感じている。

また、「育てる」ことと「教える」という行為はセットになっている。
人が人に何かを「教える」とき、そこには「知識のある教育者」と「知識のない学習者」という関係性があって、これは明らかな上下関係となる。上下関係があるがゆえに、上にいる教育者は自分が支配的になりがちだという自覚を持つことが必要になる。

「育ち」のバランス感覚

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ここまで色々と書いてきたけど、「育てる」こと、「教える」ことを一律に否定したいわけではない。ようは使いどころ、バランスの問題で、「相手が自分で育つことを信じて見守る」ことと「介入して成長をリードする」ことの両方を行き来することが大事なんだと思う。

ワークショップを開催したり、何かのプロジェクトを進めたりすることは、そこに関わる人にとって大切な成長の機会になる。そんなとき、仕掛ける側が「育てる」という感覚しか持っていないと、あとに残るのはきれいにコントロールされた主体性のない集団になる。

関わる人が自ら学ぶ、「学習するコミュニティ」を目指して、自分のために書き残します。

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