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湯けむり夢子はお湯の中 #16 ゆず湯ノスタルジー


「ひとつ食べれば7年延びる ふたつ食べれば14年 みっつ食べれば死ぬまで生きる」

 こんにちは、湯川夢子です。数ヶ月前、恋人未満ながらも坂口和真さんとの別れを経験し、ついに夢子、隠遁いんとん生活に突入か?と囁かれておりましたが、こうして元気に箱根の大涌谷おおわくだにで黒たまごをいただいております。

 たしかに、俗世間を離れ山に籠ることも考えました。けれど、借家(身内の持ち家)を引き払って仕事も辞め、温泉めぐりもせずに暮らしてゆくことなどこの私にできましょうや?五分でその考えは捨てたのでした。

 幼馴染みでビリーの湯三代目店主の拓ちゃんは、あのあと私に銭湯の回数券をくれました。懲りずに通ってくれよな、と一言添えて。ありがたいお心遣いではありましたが、なかなか足が向かずにいました。でも、今夜あたり黒たまごをお土産に、ちょっと顔出そうかなと思っております。

♨️


 帰りの高速道路が渋滞してだいぶ遅くなりましたが、ビリーの湯は深夜0時まで営業しているので、流れで立ち寄ることにしました。
 受付にはバイトの銀次くんが立っています。キラキラネーム世代にしては渋くて良いお名前。いや、ある意味キラキラしてるのか?

「夢子さん!お久しぶりです」
「こんばんは、お銀ちゃん。拓ちゃんはもう上がっちゃった?」
「大将なら駅前のラーメン屋で晩飯休憩中です」
「あら」
「お風呂入って行かれますか?大将に夢子さんいらしてますって伝えておきますよ」
「うーん…」

 ラーメンならそんなにかからず戻って来るでしょうけど、久しぶりの銭湯なので、先に入っていくことにしました。

「じゃあ、そうさせてもらおうかな。これ、拓ちゃんへのお土産預けておくね。大涌谷の黒たまごなんだけど、みんなの分も別に買っておいたから配って食べてね」

「うわ、すごい!本当に真っ黒だ。あざっす!いただきます!」

 今朝、箱根で温泉に入ってきたのにまたお風呂いただくってのもあれなのですが、今夜はやけに冷え込んでいますし、ちょうどよかったのかもしれません。

♨️


 ビリーの湯では、常時、ビリー・ジョエルの曲がかかっております。
 拓ちゃんはかつてビリー・ジョエルに魂を捧げ、丁重にお断りされてアメリカから帰ってきた男。この銭湯を継いだときも、周囲の制止を振り切って、亀の湯からビリーの湯への大改造を強行しました。結果、昔からの常連客もそこそこ残りつつ、ビリーファンの新しい客層も獲得できたのですが。

 脱衣所で服を脱いでいると、『Honesty』が流れてきました。

 中学のとき、当時まだ亀の湯だったこの銭湯の待合所で、拓ちゃんが弾き語りしていたことが思い出されます。
 耳コピ頼りのたどたどしい英語で歌う彼。時折、チラッチラッとこちらを確認するので、ちゃんと聴いてるよ!と、節に合わせて頭を揺らしていたのに、拓ちゃんが気にしていたのは、私の隣にいる薫子さんの方でした。
 薫子さんは、拓ちゃんの同級生で私のひとつ上の先輩です。
 歌が終わると、彼女は遠い目をしながら「サッチャロンリワー……」と、美しい発音で歌詞の一節を呟いたのでした。

 あれからもう、三十年近くの月日が流れたなんて。

 拓ちゃんの想い人であった山の手に住むお嬢さまの薫子さんは、ところ構わず繰り出される彼からのアプローチに一切心乱されることなく、むしろしなやかさを持って断ってきました。
 しかし、崩れないジェンガはないし、飛び出さない黒ひげ危機一発はないのだと、めげずにアタックし続ける拓ちゃん。
 そんなふたりの攻防を間近で眺めながら、私は足下の砂にひっそり三角形を描き、寄せる波に消してもらおうとするのでした。

♨️


 久しぶりに銭湯へ来たからか、そんな昔の記憶がプカプカと浮かんでは通り過ぎてゆく……。

プカプカ… プカプカ… プカプカ…

 冬至が近くなると、ビリーの湯ではゆず湯ウィークと称して白湯がゆず湯に変わります。湯気とゆずの視覚効果で、ノスタルジーに浸る夢子。
 うとうとしそうになっていると、水面が揺れて、すぐ隣に人が入ってくる気配がしました。

「アメイジングだわ……」

 おや?懐かしいフレーズ。反射的に横を見た私は、驚きのあまり声も出せず、あわあわしてしまいました。

「かっ…かっ…かっ…」
「アーユー…?ん?あら?あららら?」

「薫子さん?!」

「夢子ちゃん!」


 夢ではなかろうか?
 アメリカにいるはずの薫子さんが、なじょして私の隣でゆず湯に浸かっておるのでしょう?これは私の回想の続きなのか。はたまた今いるこの場所は空想の中なのか。ゆず湯マジック……ゆずが見せる幻想?

「What a coincidence!」

 ゆず湯越しに薫子さんに抱き締められ、夢子パニック状態です。

「薫子さん、お胸が……」
「なんてこと!夢子ちゃん!夢子ちゃんだわ!」


 薫子さんの抱擁にたじろぎながらも、十年ぶりの再会に、私は感極まっております。それは、薫子さんの変わらぬこの距離感がなんともうれしかったからでした。

 それにしても、なぜ日本に?それもビリーの湯に薫子さんが?


~つづく~


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