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子供の時に分かったこと

シャバアーサナ中にふと、小学校に上がる前の感じを思い出していた。私はあの頃、この世界がとても珍しかった。目があることによってこの世界が分かって、耳があることによってこの世界が分かって。そのことが凄すぎて凄すぎてすさまじすぎて怖かった。明日の朝、もし目が見えなくなったら、耳が聞こえなくなったら、もしくは二度と目覚めなかったら…と思うと怖くて夜眠れなかった。それくらい自分の体を畏怖してたし、深く愛していた。大切に思っていた。

でも長く生きるうちに、目で見ることも耳で聞くことも当たり前になった。当たり前な感じで生き慣れてる人たちが大人っぽくも見えた。大切だった目はゲームで視力が落ち、目の際ギリギリにアイラインを引き、マスカラを毎日塗って目の中はゴミだらけ。大切だった耳は大音量の音楽で聴力を落とした。きれいに見られたくて自分の容姿を否定して、整形以外のあらゆることを試した。現実逃避のために、体が悲鳴を上げるほどお酒を毎晩飲む。生きていられることにすっかりあぐらをかいて、自分の命を大切に扱うことをいつも忘れている。

東京にいた時、犬と生活してた。生後2か月でうちにやって来たその子を育てながら7年一緒に生きた。今、遠く日本で生きてる彼女の姿を思い出すと、あの子は大切な天からの預かりものの命だったなと思う。私は子供を産んだことがないけど、自分に子供がいたら、自分のお腹を痛めて産んだとしても、やっぱりそう思うんだろうな。天から預かった大切な宝もの。

そして、それは私自身についてもそうだったんだ。私の体は大切な預かりもの。私(あなた)の命は天からお借りしている宝もの。魂の時には知らなかった、この目に世界が映る瞬間の尊さ。

幼稚園から少し大きくなって小学生の頃、宇宙の果てについて思いめぐらせてた時、ふと、宇宙の果ては私のお腹のミクロの世界にひっくり返って繋がってると感じた。根拠はないし言ってもバカにされるから誰にも言わなかったけど、これは大発見だと思った。大人の今になって、子宮から命が生まれることを思うとき、やっぱりお腹のミクロは宇宙と繋がってるかもしれない。

小学校に上がる前、私にとって主体的な存在は神様と私しかいなかった。みんなを「見る私」。それが世界のすべて。世界とは、私。世界には私しかいない。相対的な存在になど、なりうるはずもなかった。

なのにいつのまにか自分を自ら「見られる私」「相対的な私」「比較される私」「商品みたいな私」にした。コンプレックスも手伝って誰かの言葉を丸ごと信じた。「あの人の心」なんていう、不安定で私には確認しようのない実態のないものに自分を預けてしまった。成長のプロセスとしては、その経験は必要だったかもしれない。人は社会的動物だから。

でも、もう私は一人前の大人だ。もう誰かに遠慮し庇護されなければならない弱さのフェーズは終わってる。お母さんに認められる必要もないし、それを「あの人」に投影して努力する必要はもっとない。自分を大事にして追求して主体的に、つまり自己中な生き方がしたい。つまり自分を信じる生き方がしたい。

というようなことを今日2回目となるフランス語ヨガで、つらつらとシャバアーサナ中に思ったりしたのでした。ただ、これがすぐに忘れちゃうんだ日常では。だからヨガを続ける必要がある。

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24 Fevrier  2月24日

On ne guerit d'une souffrance qu'a condition de l'eprouver pleinement.

十分に苦しんだ時、その時だけやっと人は苦しみから癒えるだろう。

  -  Marcel Proust


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