巡りめぐって(ロング!)

思い出シリーズというわけでもないけれど、思い出から始まる『はじまり』について、綴り残しておきたいとおもう。

私はいまの柴山にかれこれ6年ほどいるが、ここがまぁ、なかなかのカチカチ山である。時々、このクソ狸め(メス、役職:事務長)、泥舟と知らぬまま大海へ出航して、割と順調に航海したのち、行きも戻りも出来ないあたりで沈み始めろ‼️とも思う。が、今さら職場に桃源郷を求めるほど私も幼くないので、それはさておくとして。

そんな柴山で、私はYちゃんに再会した。

新しい人が来るのよ来るのよ!とは言われるが、いつからこられるのか知らないままで、その日は突然やってきた。

インターホンが鳴って、扉を開けて迎え入れた時、おや?と私は心の中で呟いた。

私、この人、知ってる。

彼女が狸(メス)からアレコレ説明を受けている間、私は目まぐるしく記憶の扉をあちこち開けながら着替え、更衣室からの階段を降りきったその時、記憶扉の向こう側に彼女が現れた。

Yちゃんと私は、中学時代に同じ塾に通っていたのだ。一緒に学んだ期間は短かったけれど、それでも記憶の小部屋に確かにいた、それがYちゃんだった。

当時、私が通っていた中学校は荒れに荒れ、まともに授業がある日の方が断然少なかった。通塾を始めて、他校と我が校との歴然とした学習レベルの差を目の当たりにして、おののいた。

塾では完全にアウェイ状態。その上、みんながトラック3周目に入ってる頃に1周目をエッチラ走っているような有り様だった。

こんなに遅れてるなんて!こんなことも知らないわけ?と思われているに違いない!と、毎度ひとりで落ち込んでいた。他の誰もが私よりうんと賢明であるようにしか見えず、私は教室の端っこで息をひそめて受講していた。

今から思えば、得意の妄想力を無駄に発揮して自分の不安を掻き立てていたことも、みんなも補いたいことがあるからこそ通塾していたことも、そして、勝手に萎縮して心を閉ざしていた私が、ひとり青くなったり赤くなったりしているのが不審だからこそ、みんな遠巻きに見ていたことも、ほんとに簡単に予想がつくのに。13歳の私にそんな余裕はどこにもなかった。

そんなある日。Yちゃんが私に『どこ中学なん?』と話しかけてくれた。今も昔もチビの私よりスラっと背が高くて大きな瞳、どことなくリーダーっぽい雰囲気(に、私には見えていた)の彼女が、私に話しかけてくるとは思いもせず。なにせ私の脳内は妄想逆パラダイス状態だったものだから、「あ、◯◯中…」みたいな、細切れな答えをしたため、会話はまったく弾まなかった。そして、その直後の講義で、指名されども、なかなか答えられなかった私は、複数の男子にからかわれた。すると。

『もうえーやん。やめーや』。Yちゃんの一言が、小さな教室と小さな私の心にビシッと響いた。ほんとに驚いたけれど、ほんとに、嬉しかった。

そして、帰り道に決めた。私、がんばろう。まだ大丈夫、と。

小説なら、これをキッカケにYちゃんと私の青春友情物語が始まるのだろうけど、現実はそこまでDramaticではない。ベッタリ仲良しになるわけではなかったけど、それでも、私の塾生活はずいぶん楽になった。『よっ!』みたいに軽い挨拶ができること、講義が終わったら『バイバイ』と声を掛け合えること。ささやかなことが出来るだけで、呼吸はこんなにしやすくなるのだと私は感じていた。

そのうち、事情があって、私はその塾を辞めた。割と突然だったので、Yちゃんにサヨナラを言うこともできなかった。

それきり一度も会わないままで時は流れに流れて、ほぼ30年!

私たちは思いがけず、互いの生まれ育った街の、小さな柴山で再会したのだ。

お互いすっかり大人になって、Yちゃんはお母さんにもなったけど、13歳の面影を残したまま、そして、芯のところからの優しさもそのままだった。

何せカチカチ山だから、息つく暇もない業務なうえに、しばしば、狸(メス)のヒステリーによる嵐も起きて、うっかりこんな柴山に奉公にあがって仲間入りしてしまい本当に気の毒だったけど、無事に年季が明けて(笑)、彼女は山を去っていった。Yちゃんのいない柴山が、ほんとに寒々してると感じてしまい、私はやっぱり寂しかった。だけど、今度は行く先知れずのサヨナラじゃない。「またね!」と約束できるお別れだから!

あっという間に取り戻した30年!の感覚だけでなく、新しく始まったYちゃんとのご縁の日々で、私は彼女からすでに、たくさんのあたたかさを分けてもらっている。柴山での憤懣を語り合い、世の中のアレコレを討論し、時には励ましあい、共に悩み、大笑いし。私の大切な猫が旅立った時には、一番最初に駆けつけてくれた。花束を抱えて。きっと、私が泣きながら報告した後すぐに花屋へ出向き、そのままお別れに来てくれたのだ。言葉多くに語らなくても、彼女の、猫と私への慈しみが充分に伝わってきて、素直に泣けた。

誰にでもできそうに思えるけど大半の人がしないこと。それこそが最も大きな贈り物で、それを与えてくれることがもたらす恩恵がどれほど大きく、温かく他者の心を支え包むかを、彼女は私に教えてくれた。そう、あの教室での一コマと同じものを、こんなに時が経ってまた、私は彼女からいただいたのだ。そして、更に新たな出会いまで連れてきてくれた。

猫が好き。そんな共通項が始まりで、私はYちゃんの旧友であるIちゃんとも繋がることができた。うちの猫が脱走して4日もかえって来なかった時、Yちゃんはアメリカに住むIちゃんにまで相談して、この街で犬猫の保護活動をしている方からアドバイスをいただく段取りをつけてくれた。見ず知らずの私のために、Iちゃんはその方に連絡を取り、具体的な手だてを詳しく知らせくれたのだ。何と親切な…と感謝しながら、私は手順に添って手続きをしながら、猫の帰りを待ったものだ。無事帰還の知らせをYちゃん経由でIちゃんにできた時には、まだこんなサプライズが待っているとは思わなかった。

猫が小さなお骨になって戻ってきた日。私の元に、また新しいお花が届けられた。送り主は、Iちゃん。えっ、Iちゃん!?海の向こうの、Iちゃん!?

驚くと同時に、何ということでしょう…と言葉がこぼれた。一度も会ったこともないのに!ある日突然、見知らぬ女の猫が行方不明!と聞かされても、あれほどすぐに動いてくれた人だけど、まさか、こんな追悼まで!

人を大切にできる人から、またつなげてもらったその人と、私は今や、すっかり友達ヅラして生きている。お花の御礼を初めて送った日には、ちょっと緊張して「この度は・・・」なんて書いてたくせに、Iちゃんの里帰りに合わせて初対面した日は、モジモジすることさえせず、いきなりガハハと爆笑しあって過ごした。私は2人の合間にねじ込むように我が身を突っ込み(笑)、「Yちゃん♪Iちゃん♪」と、それ以来、お付き合いをさせてもらっているのだ。

友人は数じゃねぇよ、質だよ、私は大切なわずかな人々と人生を共鳴しあって生きてくよ、だから別に、いいね☆を幾百も欲しがったりしないし、次々広げたいなんて、これっぽっちも思わないね!とか、思っていたのに。また贈り物をいただけたわけだ。

日々のささやかな出来事を報告しあって、折々に心を飛ばしあって過ごしてゆく中で、廻り巡ってYちゃんと再会した事実が導いてくれたすべての幸運を、私は何度も噛みしめる。私の大切な人達は、どんなに離れていても、毎日やり取りしていなくても、何の焦りもなく、互いが繋がっていることを疑いもしない。そして、それぞれの大切な人を、思い出を、出来事をも、いとしく尊重しあい、互いが生きている今日を信じている。

そんな私たちの日々は、これからもつづく。そう信じて毎日をそれぞれに生きられることが、どれほどありがたいことなのか。

世界に渦巻き、人々の心を蝕もうとする恐怖と戦うこの日々の中で、あらためて、それを思わずにはいられない。

だけど、心はそれぞれの奥深く、もっとも消えない灯火としてそこにあるはずなのだ。その灯火を消すのは、雨でもなければ風でもない。ましてや、目に見えぬ災厄でもない。私たち自身なのだ。出来ること、出来ないことがある。それが人生だ。どうにもできないこと…耐えがたい試練。できればそれは、自分自身には勿論、自分の愛する人々に訪れて欲しくない。まもりたい気持ち、恐怖を覚えるゆえの揺れ、それらが自分の内側で炎をあげて、心を飲み込もうとすることから、誰もが逃れられない瞬間がある。

それでも、私は心の灯火を、自分で消す私にはならないと、私を抱きしめながら、そう呟く。大切な人がいる私、私を大切に想ってくれる人。それは私の灯火を燃やす原動力の大きな幹となる。私たちはみんな、ちょっとやそっとで、それぞれの「火」を灯してきたわけじゃない。いろんな気持ち、出会い、別れ、痛み、慈しみ。それらすべてを吸収して、傷つきながらも立ってきた。どうにもならないことが迫ってきても、そこを奪うことは、ソイツには出来ない。

それが、私たちの命の誇りだと、私はまだ、信じている。

離れていても、会えなくても、私は、私の大切な命たちを、信じている。その命につらなる沢山の命を信じて、思い続ける。

廻り巡って、またいつか、必ずガハハと笑って再会するのだ。


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