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夢追翔という存在を忘れたい

 これはさして文章がうまくない人間が夢追翔5周年に際して、自己の感情に向き合った末に出した結論である。

それと、この文章を書いている人間がどうしても、困ったことに、夢追翔へ恋愛感情を持っているような気がするのでそういうのが嫌だという人はここで今すぐ読むのをやめてくれ。不快にさせたいわけではないので。

 この先の文章を読んだことによる責任は一切負えないのでそこをご理解のちに読んでいただくことをお約束願う。これは僕のこころの整理のためのノートであるし、君に配慮したものを書くことは絶対にないので文句は言っていただいて結構だが責任はとれないからよろしく頼む。これが約束出来る方のみ呼んでくれ。以上。


随分壮大なタイトルになってしまった。なんということだ。困った。

でも、100%嘘ということはない。忘れられるものなら私だって忘れたいものだ。それが出来なくて苦労しているのだ。
なぜ忘れたいのか、それは端的に言えば怖いからである。

夢追翔を推し始めて、もう3年になる。途方もない年月だ。

中学生一年生だったあの子は高校生に、高校一年生だったあの子は大学生になってしまうほどの三年という年月。短かったといえばそのような気もするし長かったと言われればそのような気もする。

少なくとも、夢追翔に想いを馳せて恐怖心を抱くには十分な年月では、あった。



夢追翔、5周年おめでとう。

絵を描こうと思ったのだけれどちょっと時間が取れなかったのと所謂研修とやらでメンタルが終わりだったので難しく、文章をかくことでお祝いの気持ちを表明しようと思う。それゆえ、多少文章が支離滅裂でも許して欲しい。

夢追翔を祝う前に少しだけ、夢追さんと自分のことを話させて欲しい。

夢追翔はバーチャルシンガーソングライターだ。とある時、作曲活動に集中するため、ということで半分休止みたいなお休み期間を設けた。積極的に配信は行わない期間。

このお休み期間というのが、私にとって、長すぎた。そしてタイミングも悪すぎた。自分の忙しい期間と重なってしまった。

ふと、夢追翔から、そして、にじさんじから離れてみよう。と思ったのだ。夢追翔が週に一回程度配信をする時は配信を見る。夢追翔が出演したコラボものぞいてみる。夢追翔が出演する公式番組も見てみる。夢追翔をリアルタイムに見れるものは見るが、アーカイブやらオリジナル曲やらから離れてみようと思った。

どれくらい自分が夢追翔に依存しているか知るためと、代わりを見つけるために。夢追翔が「死んだ」時のために。

そうして、離れてみて気がついた。自分には何もなかったのだということに。

絵を描こうとしたのだが、何をどう描いたからいいかわからない。夢追翔ばかり描いていたから。ツイートをしようと思ったのだが、なんと呟けばいいのかわからない。夢追翔のことばかり呟いていたから。
動画を見ようとしたのだが、何をみたらいいのかわからない。夢追翔のことばかり見ていたから。

何も無くなってしまった。夢追翔だけでなくVtuberというものを自分の生活から排除した結果、なんと無惨なことに自分には何一つ残らなかった。残ったのは虚無感と、研修への焦りだけ。

考えてみれば当然も当然だった。私は好きになったらとことんのタイプでそれまで好きだったもの一切をかなぐり捨てて没頭する。Vtuber、夢追翔が好きになって以来彼中心の生活でありそれを抜くことなど想定されていない。

だからすごく、すごく途方に暮れた。電車ですることがない。休憩の一時間ですることがない。寝る前の隙間の時間にやることがない。

何を、したら。私は、何を好きになったらいいのだろうか。そして最終的には、残念なことに、夢追翔以外のVtuberを見ても良いことにしてなんとか折りをつけた。

しかし、結局夢追翔から抜け出すことはできなかった。はなから無理な話だったのだと、気がついた。とても残念なことに私は夢追翔にガチ恋をしている。そう、とても残念なことに。

ガチ恋を何度辞めようと思っても(大体一年半の間に両手で数えられる程度は諦めようとしているので相当な数だ。)難しかった。
色々やりは、した。恋人を作るだとか、逆に金をかけてみるだとか、自分磨きをしてみるだとか、いかに無意味か考えたりだとか。それこそ距離を置くだとか。どれもこれも目覚ましい効果は得られなかった。

結局は好きなんだからしょうがないと戻ってきてしまうのだ。恋は盲目なので。そして私は大変愚かなので。

だがしかし今回夢追翔を「日常」から排除し、気がついた。これは恋ではなく執着なのではないか、ということに。その実、夢追翔に向ける感情の分析をしてみると「私を見てくれ」(認知されたい)という感情が1番占めていることに気がつくことができた。
まぁ確かに、恋は「私を見てくれ」という感情の最たるものであるかもしれないが、それは一旦置いておいて。

そうなると、「夢追翔に見てもらえている実感が欲しい私」なぞ、「夢追翔に執着している私」なぞ自分ではどうすることもできないのだ。

性格上、執着したら「飽きるまで」というより「他のものに執着するまで」それを離れることはない。

だとすると、私は、夢追翔を脳の機能的に忘れる=忘却するしか執着をやめる方法がないと思った。

なんでこんなに執着をやめたいか、それは冒頭にも述べたように夢追翔が「死んだ」とき、困るからである。

こんな執着している存在が死んだら、怖い。
きっと、私は薄情な人間だから、そのうち夢追翔に代わる執着する存在を見つけるだろう。

じゃあ夢追翔はどうなるのか。どうにもならない。単純な故人としてその名をインターネットに残すだけである。

それがすごく怖いのだ。

あんなに好きだったのに。あんなに執着していたのに。何が怖いかなんて説明できない。夢追翔が死んだあと、私が夢追翔を故人として受け入れてしまうことが、何よりもの恐怖なのだ。

夢追翔に私は救われた。数年前、社会からサヨナラをするために電車に乗っていた自分は夢追翔の「青空を睨む」を聞いてそれを踏みとどまった。文字通り救われた。そんな存在を、私は、故人として受け入れてしまう可能性があることが、すごく怖い。

そうしてこの段階になって、エゴイズムが生まれた。夢追翔が私が執着をやめるまで生きていれば良いのだという、あまりにも自己中心的な、そして至極ありきたりな考えに辿り着いた。

自分が飽きるまでアイドルをやってくれというドルヲタのような。

この考えにたどり着いたときにやはり私はそのような人間なのだ、と改めて嫌悪した。最悪だった。自分がエゴまみれの醜い人間だとわかっていても今一度突き付けられると純粋に嫌な気持ちになる。

だけれども再三いうようにどうしようもない。この感情はどうしようもないのだ。

私がいくら怖いと言えど、それは夢追翔の人生に何の影響も及ぼさない。
いくら私が夢追翔に執着しようが、そんなの夢追の知ったことではない。

長々と喚いてきたが何の意味もないのだ。こんなことを思ったところで夢追翔は自分の思う方向へ進むだろうしそれが私の思う通りに行くとは限らない。

私が出来ることなんてそう、祈ることくらいだろう。
祈って、呪って、祝って。
そして、勝手に夢追翔の行動に一喜一憂することしか許されていない。

じゃあ致し方ない、祈って、呪って、祝おう。それしか、出来ないのだから。

さて、ここにきてようやくの夢追翔への祝いの言葉になる。短いがどうか許してほしい。

もしこれを夢追翔が読んでいたなら。先に言わせてほしい。私はこれからあなたにたくさんの祝いという名前の呪いをかける。それは前文で読んでもらった通りエゴに基づく呪いだ。見たくない場合は今すぐブラウザバックを推奨しよう。

もしあなたが、夢追翔が、最低でもあと一年夢追翔で在ってくれるなら是非読んでほしい。

夢追翔、5周年おめでとう。

大好きだよ。私の人生を救ったあなたを私は恐らく一生涯許さないだろうしそれと同じくらい一生涯感謝し続けるだろう。ありがとう。
あなたの歌で救われた人もいます。元気に過ごしてほしい。きっとファンはそれだけで嬉しいはずだ。少なくとも私はそう。
それから今後もたくさん歌ってほしい。あなたの歌声はとても素敵だ。あなたの紡ぐ曲はどれも素晴らしいものばかり。どの楽曲も愛しています。
さいごに。
もし仮にだけれど。死にたくなった時には。夢追翔さんって人がつくった、「青空を睨む」って曲を一度聞いてからにしてほしい。いい曲なんだ、凄く。それから、首吊りはあまりお勧めしない。覚えておいてほしいな。

沢山の呪いをかけてしまって申し訳ない気持ちだけれど、許してほしい。エゴだって最初に言ったからね。

以上を持って夢追翔へのお祝いとさせていただきたい。

長い自分語りと短いお祝いを読んでくれたあなたへ、最大の感謝を。

私は夢追翔が、好きだ。

以上 2023/09/25 夢追翔5周年によせて

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