しあわせのすみか

隣の席に座る後輩が、「しあわせってなんでしょうか」と問うてきた。
残業をしているのは私と彼女の二人だけで、冷房の切れた事務室で私のデスクのポータブル扇風機だけが安っぽい起動音でファンを回していた。
彼女は私よりも四つ年下で、おしゃれで、頭がよい。地元でも名の知れた高校と大学を卒業し、新人の頃からくせのある上司と仕事をこなし、昨年異動してきて仕事はわからないくせに口ばかり達者な私にも優しく仕事を教えてくれる。見た目は少し派手で女性的だがいつも冷静沈着で、どんなことにもすぐに最短ルートを見つけることができる。
まつ毛パーマに行くんですけど、と、彼女はまつ毛を指で遊びながら言う。全身脱毛もしているし、先週はフェイシャルエステに行ったという彼女は、若く、美しい。
「はなえさんは、しあわせですか。彼氏さんいるし、しあわせそう」
彼女は屈託なく言う。彼女に恋人はいない。私にはいるが、それがしあわせの尺度かというとそうではないのだが、確かに恋人がいない頃よりは今のほうがしあわせだと思う、けれど、それは私のしあわせであって、彼女のしあわせにぴたりと当てはまるというわけでもない。
「でも、恋人がいるのがいいとか、そういう話でもないと思うし、すみれちゃんはモテるだろうけど出会いがないのと、相手が怖気づいちゃうんじゃないかな、高嶺の花みたいな」
「上ってきてくれる男がいいですね」
彼女はえへへ、と笑った。シャネルのアイシャドウをまとった瞼がすっと横に伸びる。しあわせ、の、確固たる返事はできず、彼女はより一層美しくなるために事務室を出ていった。

そうして、今日は午前中に仕事をし、家に帰って化粧を直し、恋人と映画を見に行った。しあわせな、ハッピーエンドの映画だった。しあわせに終わるための伏線の悲しみのエピソードに、結末がわかりきっているのに、私はボロボロ泣いた。ボロボロ泣いていたら、恋人が手を繋いでくれた。湿った手だったが、とても温かかった。そうして、やっぱりハッピーエンドで終わった。
中途半端な時間だったが、お腹が空いていたので安いチェーンのラーメン屋に行った。カウンターしかなく、メニューは壁に書かれた文字だけのラーメン屋のラーメンは、まさにラーメン、という味で、可もなく不可もなく、でも不思議とまた来たくなる。忘れたころにくるだろうね、と恋人に言うと、そうだね、三か月後ぐらいかな、と答えて笑った。
恋人とわかれるとき、明日の予定を尋ねると遠方から帰省している友人と会うという。本当は明日も一緒にいたかったけれど、不思議と寂しく思わず、楽しんでね、と笑顔で送る。

家に帰ってから、映画が始まるまでの時間で買ったパンプスを玄関に並べた。新しく靴を買ったら捨てるのことを流儀としているので、ボロボロになった違うパンプスを二足捨てることにした。ソールがはがれていたものと、泥道を歩いたときに汚れてしまったもの。私のためによく尽くしてくれた。そういうものを捨てるとき、私はとても心地よく感じる。細胞の入れ替えのようで、また、新たなことが始まる気がするのだった。

しあわせ、とは、何かとかどこにあるのかと問われて、確固たる自信はないのだけれど、今日の一日はとてもしあわせだったと、後輩に言えるだろう。人生一番の、とか、一生の思い出、とか、そんな一日は凡人の私にはおそらく訪れないだろう。けれども、いつか忘れ行く、今日のような一日であっても、しあわせな日はしあわせなのだ。
もちろん、今日のように満たされる日もあれば、いつまでたってもがらんどうの心が音を立てる日がある。その音が耳触りで使用がなくて、耳をふさぎたくなることもある。それでもきっと、しあわせな日は、しあわせな、何の気ない一日は、この先も転がっている。恋人がいるとかいないとか、そんなことはきっと関係ない。自分が導かれ、進む先に、いろいろなしあわせは転がっている。そんな気がした。

しあわせのすみかはきっとすぐそばにあると、後輩に伝えるにはどんな話をしたらいいだろう。