鬼が笑えば

あれよあれよと1年が過ぎたようだ。自分ごとなのに「ようだ」と言ってしまうのは、その実感がないからだ。
さっき日付が変わったので、今は12月30日の金曜日だが、先週や先々週の金曜日となんら変わりがないように思える。あと2日で1年が終わるだなんて、終わるよと告げられて、新しい1年が来たよと教えてもらわなければ、うっかりいつもと同じように出勤して、上司や同僚がやってくるのを待ってしまいそうだ。

この時期になると、膨れ上がったSNSの中で、皆、1年を振り返り、またやってくる1年に未来を見出している。私はそういう、まぶしげなものを人差し指でやり過ごす。私の1年は、なんだったろう。何も思い浮かばないで、スマートフォンを投げだす。最近のお気に入りの行動だ。なんでも、投げ出す。考えない。いつのまにか眠り、つぶしていくだけの1日が始まる。そういう風にしていたら、1年経ってしまった。

この1年を振り返るのは、辛くてできない、というのが本当、というか、大変だったこと、いやなことは覚えていなくて、次いでによかったことも覚えていないので、ほとんど覚えていない。刹那的に生きているわけでもないのだが、脳みそにある、粗い網目からざあざあと記憶が抜けて行ってしまったのだと思う。そばにいてくれた恋人や友人の、優しい声音だけは覚えているのだけれど、何と言ってくれていたかはわからない。そんな感じだ。

日々がただ、過ぎていくものになってしまったのはいつだろう。1年1年を、新たな気持ちで迎えなくなったのはいつだろう。そもそも、毎日をそんな大切に生きていたか、わからない。
年を重ねるごとに、残された時間は少なくなって、自分の歩んできた道は長くなるはずなのに、そういうことと自分が思うことはいつもちぐはぐだ。これから先、まだまだうんと歩くように思うし、今まで自分がどれだけ歩いてこれたかは分からない。
あーあ、と、ため息をついても、自分の歩幅も思考もがらりと変わるわけでもないから、途方に暮れている。年の瀬にこんなことを考えてしまうあたり、来年もこんな風な1年を過ごすのかもしれない。そう思うと、またもやため息をつかざるを得ないのだ。

まあ、来年のことで鬼が笑ってくれれば、私の懊悩も少しは役に立つのかもしれないが。