untitled(掌編)

雨が降っているのに気付かないで、一階フロアを横切ったら、総務課で一人残業していた澤谷くんと目があった。去年まで同じ課で仕事をしていた彼は、同い年だけれど大学時分の留学などが関係して私よりも一期下だ。年が同じと分かるとため口を聞いてくる輩が多い中で、澤谷くんは几帳面に私に敬語を使ってくれる。

「徳田さん、雨降ってますよ」
「そうなの。まあ、車だからすぐだ」
「そうですね。もう帰りですか」
「うん。澤谷くんは残業?最近遅いのね」
「徳田さんもなんだかんだ残ってるじゃないですか」
「澤谷くんよりは早いよ」
「まあ、そうですけど」

澤谷くんはにかっと笑った。今年異動したばかりなのに大きな仕事をいくつも任されている彼は、入社3年目にして佳境を迎えているらしい。色素の薄い瞳や桃色の唇や白く並びの良い歯などが、育ちの良さを物語っている。彼が悪口を言うところなんて見たことがない。

「徳田さん、今度ご飯行きましょうね」
「私はいつでもいいけど、澤谷くん次第だよね」
「おっしゃるとおりです。でも7月は難しいかも」
「え、今日まだ2日だよ?」
「お先真っ暗ですよ」

とりとめもなく話をしていたら、午後10時を知らせるオルゴールが鳴る。これを聞くと絶望感が強くなる、なんていうのはみんなが口々に言っており、澤谷くんもご多分に漏れず溜息をついた。

「ま、ま、頑張って。澤谷くんはできる子だから」
「でも要領の悪い子なんですよ」

彼はまた笑った。短髪の彼の、綺麗なおでこに一筋走る。じゃあね、と私はその場を後にした。外は結構な土砂降りで、通用口から駐車場までの間にかなり濡れてしまった。車に乗り込むと、自分の体から雨のじっとりした土っぽさが匂いたった。ふ、と、短く息を吐く。

風呂を済ませ、ベッドに横たわる。雨が川の様に水の流れとなって過ぎ去っていくのをじっと聞いていた。
私の中の雨の音は、地表を流れていく音だ。小さな雨粒が家々の壁や窓に辺り、僅かな帯になり、その帯がまた合流してどんどん太い帯になり、いつのまにか黒々とした道路に沿うように流れる川となる。甘い瑞々しい音を立てて、帯と帯が絡まり合い、雨は流れていく。その、音だ。その音が遠くから聞こえてくる。まるで私の家だけは、ビニールでできたボールの中にいるように、遠くから。よく小説なんかで雨が窓にあたって砕ける描写があるけれど、そんな音はほとんど聞こえない。あるのはただ、一つの川の音。

会社から出て駐車場へ走る間、私の頭や服や体をうちつける雨粒が不快で不快で仕様がないのに、家の中でこうしてベッドに寝転がって聞いている雨の音は、とても美しく感じる。
中学生の頃、雨の音は女神の涙だと形容した詩を読んだ覚えがある。その時は、雨じゃなく雨の音がどうして涙につながるのかさっぱりわからなかったのだけど、きっと作者は今の私と同じように雨の音だけが聞こえる場所にいたに違いない。だから美しいものだと知ったのだろう。

雨の音を聞きながら、ふ、と息を吐くと、体の真ん中の力が抜けた。真ん中の内臓や肉や骨や皮がふっとどこかに逃げて行ってしまったように、へこむ。そのまま息を止めると、咽喉の奥の方みぞおちの奥の方から得も言われぬこそばゆさと高揚感とがあふれてきて、その瞬間にあの人の顔が思い浮かび、ああ、この感じ、お腹の奥がむずむずして心臓がむずむずして肩口がむずむずするこの感じ。恋に似ているのだと気付く。澤谷くんの顔を思い浮かべ、もう一度息を吐いた。

彼のことが好きだから、残業する姿を見ると心配するよりも何よりも安心する。彼に彼女がいることは知っているけれど、残業をして帰りが遅くなればなるほど、デートなんかしてないんだろうから安心だ。だから私は彼が残業するほと忙しいことも仕事が佳境なことも、心配ではない。嬉しい。
こんなバカげたことも、雨の音を聞いていると、許されるような気がした。

別に、澤谷くんとご飯に行けなくたっていいのだ。相思相愛なんてならなくてもいいのだ。一緒に総務課の前で雨の話なんかをして、午後10時の音を聞き、彼の綺麗な唇から聞こえる吐息が聞くことができれば、私はそれで嬉しい。

END