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Blue Lose Vol.3 内容紹介

 負けヒロイン研究会会誌「Blue Lose」Vol.3を5/21(日)開催の文学フリマ東京で頒布予定です。Vol.3では10年代特集として、10年代の作品や、その時期のジャンル状況に関する寄稿を多数いただきました。

内容紹介

1.「日常系」座談会

参加:舞風つむじ てらまっと×noirse

「日常系」の現在地などこなのか。「日常系」座談会では、2014年刊行の『セカンドアフター臨時増刊号 日常系アニメのソフト・コア』に参加したてらまっと、noirse両氏にお話を伺います。
同誌を踏まえながら、それ以降の時期における「日常系」作品、そして京都アニメーション作品を取り上げつつ、「フィクション」そのものが置かれた状況を考えていきます。

2.ヘテロの家  ー『7SEEDS』紹介

著:味園

漫画『7SEEDS』(2001-2017)評です。
『7SEEDS』の魅力を紹介しつつ、作中に描かれるモチーフやキャラクター同士の関係から「主体性」、「女性性」、「家」という三つの主題を、数人の思想家を参照しながら読み解いていきます。

3.「断ち切る力」と「繋ぐ力」
クトリ・ノタ・セニオリスの笑みについて

著:砂糖円

『終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?』(2014-2020)評です。
クトリはなぜ、最後に微笑んだのか。そして、我々はなぜ彼女の微笑みに目を引かれてしまうのか。作中、そして彼女の背後に潜在している二つの「力」を解釈し、その問いへの応答を試みます。

4.探偵と原子力
ークレメンス・J・ゼッツ『インディゴ』小論

著:きただ

『インディゴ』(2012)評です。本作を先行する他の作品と比較していきながら、反探偵小説として読み解いていきます。また、後半では本作を原発/震災文学として解釈する可能性を提示します。

5.13歳の夏、あるいは"彼女"と過ごした中学時代

著:和泉しげ

真っ白な帽子、青い髪、白いワンピース……ある日の回想から、"彼女"と過ごした忘れることのできない10年代のあの時のことを振り返ります。"彼女"が誰なのかは……そのうちわかるゲソ。

6.10年代についての放言

著:ジョン・スミス

10年代とはどんな時代だったのか。そして、すでに過ぎ去ってしまった10年代について、いま考えることにどのような意味があるのかを書き綴っています。

7.あの時を追い求めて

著:Twitter1.0

「青春ヘラ」には乗れないながら、それに近い感情を持つ筆者が生み出した「10年代ヘラ」。筆者が感じているその概念から、10年代の雰囲気が失われているという事実にいかに立ち向かっていくかを記しています。

8.巡礼するということ 
ー10年代のコギトにまつわるおぼえがき

著:sen

もはや全てがデータベースの下部に位置し、「オリジナル」が失われてしまった現在。誰もが同質であると錯覚してしまいがちな状況で、改めて他者を理解不可能なものであるという姿勢を示し、その中で他者と対話できる可能性を、10年代にあったはずの「巡礼」という在り方から再び探ります。

9.10年代を語る難しさ
ー中国のオタク文化受容史と負けヒロイン研究会の問題

著:紅茶泡海苔

中国におけるオタク文化の受容を80年代から10年代まで、筆者の記憶とともに振り返ります。その中で明らかになっていく「10年代における受容」の同時代性を考慮しつつ、「10年代」に固有の共通言語のなさを指摘します。そしてそれは、転じて負けヒロイン研究会(特に、その主宰者)が「10年代」にこだわることの難しさと可能性を示すものとなります。

10.テン年代と「オルタナティブの亡霊」
There was no alternative?

著:幸村燕

"There was no alternative? "マーク・フィッシャーが『資本主義リアリズム』の副題につけたこの問いを、10年代のマスカルチャーがどのようにして引き受けてきたのか。新海誠作品をはじめとしたいくつかのコンテンツを見ながら、「かつてあったかもしれない」ものとしての「オルタナティブの亡霊」との向き合う可能性を論じます。

11.10年代ライトノベル座談会

参加:くあド×舞風つむじ

多くの人に読んでほしいライトノベルを、互いに10作ずつ挙げ、それぞれについて簡単ながら紹介をしています。また後半では、そうしたライトノベルたちの魅力を考えつつ、10年代におけるライトノベルとはなんだったのかを考えていきます。

12.鬱から萌えのエロゲテン年代史

著:くるみ瑠璃

全体が10年代美少女ゲームのプレイガイドとして機能しながらも、10年代における美少女ゲーム史を紡ぐ試みです。美少女ゲームの到達点としての2011年、そして以降のゼロ年代からの転換と継承……。以降をいくつかの要素に分解しつつ、それぞれの延長線上にも傑作は存在し続けていることを示します。

13.日常系の物語構造とまんがタイムきららの10年代

著:ふぁぼん

10年代以降現在に至るまでの「まんがタイムきらら」内での流れを簡単に紹介しながら、現代におけるまんがタイムきらら、そして「日常系」とは何かを(暫定的な形ではありますが)示します。また、それを用いた実践として、『ご注文はうさぎですか?』と『ゆゆ式』の物語構造を評しています。

14.10年代アニメ概説

著:遥散人

10年代のアニメは、実際どのような作品が多かったのでしょうか。筆者が10年代の各クールに放送されたアニメを調べ尽くし(!)、いくつかのルールのもとに選別した深夜アニメを、各年度の作品数増減や原作メディアの種類、制作会社ごとに概観していきます。ぜひ紹介された作品から、興味のあるものを探してみてください。

15.ビデオゲームと10年代
ー10年代ゲーム"主観"と「推し」キャラクターについて

著:蛍火くじら

スマートフォンを10年代の終わりまで持たなかった筆者の感覚とともに、10年代に主流だった「ゲーム」の変遷を書き綴っています。ゲームの中心がスマートフォンを用いたソーシャルゲームと変わっていく中で、なにがかつてと変わったのか。そして、それはどのようにして「推し」の文化に接続していくのかを考えていきます。

16.10年代における「メンヘラ」の〝死〟について

著:ホリィ・セン

10年代を通して度々話題になった「メンヘラ」とはなんだったのか。「メンヘラ」にあったはずのリアリティは、もう失われてしまったのか。本稿では、より詳細には「メンヘラ」……より詳細にはその概念の〝死〟、つまり「メンヘラ」カルチャーの固有性が失われたことについて、著者自身の経験に基づきながら記していきます。

17.ビッグ・ブラザーは死んだのか?
ー10年代におけるニュージェネレーション「ウルトラマン」についての論考

著:くろーぶ

ビッグ・ブラザー(=ウルトラマン)が完全に壊死しまったということは、かつて『リトル・ピープルの時代』で論じられました。
しかし、それは2010年代を通して常にそうだったでしょうか。本稿では『リトル・ピープルの時代』以降に放送された「ウルトラマン」シリーズを概観し、「ビッグ・ブラザー」という正義の在り方にとらわれない、新たなウルトラマン像を考えます。

18.彼女は今どこにいる?
ー2010年代における「初音ミク」概念形成とその崩壊

著:ukiyojingu

「初音ミク」という存在は、よく知られている通り「集合的な」初音ミクと、「うちだけの」初音ミクの間を往復することで形成されてきました。しかしそれは、虚構-現実の境界線が曖昧になってゆく今日において、その根本原理を失いつつあります。
では、彼女の新しいアイデンティティはどこにあるのか……初音ミクは、いま「どこにいる」のか。精神分析的視座に立ちながら、新しい集合-個別間に揺れ動く「初音ミク」の在り方を探ります。

19.「オタク」の意味の変遷
ー2010年代を中心に

著:みやまれおな

「オタク」という言葉は結局どのような意味があるのか。80年代から現在に至るまでの『アニメージュ』や『週刊SPA!』といった雑誌の記事を調べ尽くした筆者が、「オタク」という言葉の受容や持つ意味の変遷について論じます。そしてそれは、10年代における「オタク」と言う言葉の意味の転回を示すものにもなります。

20.コミケ、その時代の終わり
ー美少女同人ジャンルの通時的観察

著:箱部ルリ

コミックマーケットは、ニュースに取り上げられることによって10年代に大きく盛り上がるようになりました。しかしその裏側で、コミックマーケットでは大きな(そして不可逆な)変化も進行していました。それは同時に、コミケに代表されるオタク文化、延いては若者文化そのものの一つの時代の「終わり」を示すものにもなります。
本稿では10年代の始めから現在までに開催されたコミックマーケットのうち8回の出展サークルやジャンルの推移を調査しながら、その「変化」自体がどのようなものなのかに迫ります。

21.おまけ 10年代アニソン大賞 結果発表!

著:負けヒロイン研究会有志

2023年3月にTwitter上で開催した「10年代アニソン大賞」のアンケート結果を発表します。今回は曲名とともに、アーティストごとの点数も算出した上で、上位に入った曲/アーティストを紹介しています。果たして一位に輝いた曲はなんだったのでしょうか……。

表紙/裏表紙

作:YK

主宰と友人であるYK氏の趣味全開で合計20人(と1匹)が登場です。やや年代が偏っている気もしますが、その辺はお許しいただきたいところです。皆さんは何人わかるでしょうか?一定以上分かった方には、頒布時になにか嬉しいことが……?当日にご期待ください。

おわりに

(という名の巻頭言的なもの)
 年代について何かが語られる際、10年代はあまりにも忘れ去られてきたように思います。それは震災とコロナの狭間にあるからであり、過去のコンテンツの再奏が多かったからなのかもしれません。10年代はいつでも「コロナ禍の前」か、あるいは「ゼロ年代(あるいは、震災)の後」という認識で語られてきました。
 しかし、本当にそれだけだったでしょうか。僕たちは本当に震災による断絶の後、過去に作られた物語を複製し、消費するだけの10年を過ごし、(突然目覚めたように)その後いくつかの問題へ向かうようになったのでしょうか。
 少なくとも僕は、全くそのようには思いません。10年代は、現在進行形の問題に対して応答できる、豊かな可能性に満ちていた時代です。例えばそれは(本誌のいくつかの文章で出てくる問いでもある)「集合(=データベース)」と「個別(=オリジナル)」間の関係の分解-再構築でした。もはや自身すら把握しきれないデータベースを、僕たちは文化の中に内在させています。そうした関係の中で現れてくる消費のしかたには、我々を新しい地平へと導いてくれるような可能性があったように思えてなりません。
 とはいえ、今回本誌がその回答に到達し得たとは思いません。僕が行いたかったのはその前段階……つまり、個々人の記憶(しかしそれはある程度の一般性を持つような)から「10年代」の輪郭を掘り出し、可能性を探る礎を構築することだったと思います。そしてそれは、やや不十分(いくつかのジャンルについて取り上げられなかったという意味で)かもしれませんが、ある程度の水準で達成できたと考えています。
 また、他方で本誌は僕たち(とりわけ10年代に思春期を過ごした人たち)の存在証明でもあります。10年代はゼロ年代が過ぎ去った後でもなく、20年代が来る前でもない、固有の時代です。僕たちは過去の模倣をしていたわけでも、現在と同じように生きていたのでもなく、「10年代」を生きていた。その証明が、本誌ではいくつかの文章から確認することができるでしょう。その意味で、他の世代論的に回収されることのない(あるいは、他の世代論の仮想敵以外の存在理由を持たない)、「10年代」を形成することが本誌の統一的な目標だったと言えるかもしれません。
 そのため、ここまで書いてきた通り本誌はその試みのはじまりに過ぎません。ここから「10年代」とは何かを考えることが始められることがあれば、本誌の目標を達成したということができるでしょう。それを行うのが誰なのかは分かりませんが(あるいは僕なのかもしれませんが……)、少なくとも誰かにとって本誌がその全く新しい可能性を掬い上げる前段階となり、何か一つでも得るものがあったのならば、主宰者としてこれ以上の喜びはありません。

(文責:舞風つむじ)

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