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VTの価値、視聴者の価値観

昔、ゲームをしているとしょっちゅう言われたよ。
そんな事してもなんの意味もないじゃないかってね。
だからそん時は言い返してたもんだ。
「俺は楽しいんだからいいじゃねえか」ってな。
そんな中学生の頃の思い出話。

価値観を思う

 価値観ってのはとても大事なもんだ。
 そのために俺達は生きたり死んだりする事もある。
 その価値観にも重さや強度があるって考えたことはあるかな?
 簡単に言うと「重さ」ってのはそれがどれだけ
集団から認められているかってこと。
 例えば歌舞伎や相撲。そういった伝統が持つ価値観は重い。
 価値観の重さはそれ自体が持つ経緯によるとも言えるね。
 だって価値がなければ長続きしないでしょ。
長く続いた事実自体にすでに価値が生まれているワケさ。
 そして強度
これは重さとは反対に価値観を持つ個人に由来する要素だね。
 その物事をどれだけ強く強く思っているか。ただそれだけ。
 この二つは相関がありそうだけど、実は全くないんだ。
 例えば俺は歌舞伎なんて全く興味はないけど、
その重さだけは理解できる。
 だから俺にとっての歌舞伎は重いけど脆いんだな。
 逆に俺にとってVTは軽いんだけど、とても硬い。

1.今更この記事の反応の話

 先日、界隈の一部を騒がせたこの記事。
詳しくは知らないけど、感情的なアンチコメントが沢山もらえたそうで。
すごく適当な例えをするけど、
これが歌舞伎だとか相撲だとしたら万が一でも炎上しないよね?
だって個人がどういった所で「価値観が違う変人の戯言」扱いだからね。
 そもそもこの記事はVT側の話で視聴者側の話じゃないんだけどさ。
 それでも視聴者達がもしスシさんの記事を否定と受け取ったならばそれを上回るレベルの肯定的な記事を書くべきじゃないかな。
価値観をめぐる議論ってのはそういうもんだろ?
 俺の知る限りではこれに対して匹敵する熱量の肯定的な記事はなかった。
界隈全体を俯瞰的に見て現状をよしとする反論的な記事は無かったね。
 それは視聴者もまた漠然と好きでいるのが今のVT界隈なんだろう。
だから自分が何によってこの記事を不快に思い、
どう自分は肯定的に界隈を見ているのか具体的な形を示せない。
結果、感情的な反論や下らない揚げ足取りしかできない。
自分の確固とした価値観に基づいてそういうことしかできないのであれば
まあ…うん…ごめん…
 翻って大半の視聴者は結局個々の配信者が好きなだけかも知れないね。
というのであれば別にVTでなくても良い事になるわけだけど。

2.サブカルオタクはかく語る

 ところでメインカルチャーに対して
サブカルチャーの最大の違いってなんだと思う?
 それは理由を問われない事だよ。
 例えば誰かにそれが好きですって言ったら
「なんでそんなもん好きなんだ?」
って聞かれない事だ。
 メインカルチャーってのは社会的価値観から認められているものだ。
 でもサブは違うんだよ。
社会的な価値を持たないサブカルチャーは
常にその価値を問われ続ける運命にあるわけよ。
「そんなもんに何の意味がある?」
「そんな事して何になる?」

 そこで昔ながらのオタク野郎は自分に問いかけて
その答えをそれなりの強度で持たなければならなかったんだ。
家庭で、学校で、職場で、コミケで。
そう聞かれる度に鉄床で叩かれる気分だったね。
 その過程で自分の中の価値観というものを
何度も確認して育てていったワケ。
別にそれで「今どきの若いもんは…」なんて言うつもりはねぇ。
しなくても良い苦労なんてする必要はないじゃん。
苦労は人を育てるかも知れないけど、
それ以上にひん曲げることのほうが多いからね。

3.主観と自覚、あるいは主観を自覚する


 だから、ちっとやそっとの否定(されたという思い込み)で揺らぐのは
個人に、コミュニティにその価値観が育っていないからだと見れるんだな。
 その軽くて脆い価値観はあっさり崩れて
その後に残るのは好きという感情だけ。
 そしてそれは同時に自分の好きすら
よく理解出来ていないが故の問題も生まれるんだ。
 問題の根幹は確固とした「」という主観で
傲慢に断定する図々しさがない事にもあるね。
 それに価値が無かったとしても
主人公たる己が認めたモノをただ大事に思うだけで
それは個人に芽生えた新しい価値観になんじゃないかな。
 だから最初に言った言葉が好きの理由を百万言を連ねたとしても
大事になるワケさ。
 「俺は楽しいんだからいいじゃねえか」
 そのものの価値なんてのは屁理屈好きの偏屈野郎が考えてくれるんだ。
主人公はただ好きでいるだけで十分なんだ。結局はね。

瑞巖彦和尚。毎日自喚主人公。復自應諾。乃云。
惺惺著。喏。他時異日。莫受人瞞。喏喏。
          惺惺著『無門関』第十二則
※瑞巌和尚さんは、毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、
また自分で「ハイ」と返事をしていた。「はっきりと目を醒ましてる?」「ハイ」「これから先も人に騙されない?」「ハイ、ハイ」といって、
毎日ひとり言をいっておられたそうな。

4.言葉だけが価値観を生み出す

ならなんで
「否定と受け取ったならばそれを上回るレベルの肯定的な記事を書くべきだね。価値観をめぐる議論ってのはそういうもんだろ?」
と言ったか?
そりゃ、言葉を尽くすことだけが
価値観を作り出すことができるわけだからね。
 そして価値観というのは必ずしも否定し合うものではないという事。
カレーが嫌いな人と好きな人。
それぞれの好みはさておきなんと言われようが
カレーの味は変わんないのと一緒だ。
 でもカレーが嫌いな人だけがカレーに対して言葉を残さなかったら
カレーは不味い食べ物になるんだ。
だからカレーが好きな人はカレーが好きと言葉にしなければ
後世の人達はカレーの公正な評価は下せなくなるわけだね。
 例え評論は作品自体の価値を上回る事は無かったとしても、
後を考えたらば絶対に批判を好きに変えて発信すべきだ、と思うね。
ただ好きで居るだけで十分だよ。
でももしもこの脆くて儚い流行りを文化たらしむるならば
視聴者が唯一できる事はそれだけじゃないかな。

5.価値観を共有する時代

 ネットメディアが発達していなかった頃、
オタク野郎は自分のチンケな価値観を守るのに必死だった、気がする。
 それこそ日陰の石の裏でしか生息できないような有様だった、
と思う。もう随分昔の事だからよく覚えてないが。
 でももうそんな時代じゃないでしょ?
権威だけがマスメディアを利用して、
勝ち組に有利な価値観を植え付けていた時代はもう過去のものさ。
 SNSで同好の士が繋がり合って、
お互いの価値観を共有しあえる時代が来たんだ。
それって思想史上凄い出来事なんだけどね。
それをただ感情のはけ口にするか、自身の価値観を育む場とするか。
まあ好きにすればよろしい。

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