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ターラナータ尊者の自空・他空の分別 3 意訳

ジョナン派の他空説中観の教えがどういったものなのか、今は海外で活躍されているジョナン派の恩師に尋ねた時に授かったのがこの教えでした。
「本当にあるから、煩悩をなくしていくと仏の性質が現れる」と、分かりやすく教えて頂いたので、私の中では普通の空の見解が
「煩悩に抗う為に錯覚・誤解を減らすための教え」、他空の見解が
「本来の良い性質が人にはそもそも具わっている、人の本質は善という教え」になりました。
また密教の教えで海外で活躍されておられるゲルク派の恩師は、
「第二転法輪では空は善でも悪でもない中間、無記のようですが、第三転法輪では空は究極の善です」
とまた分かりやすく教えて頂きました。

つまり、空を学ぶ事で煩悩に対処し、人の本性に楽観的でいられる、人は変われるという可能性を知る機会になれば、と訳しました。


自空・他空の分別 3 意訳

では自空とは何か(というと)「一般社会で言語的にも認識が成立する範疇の存在(世俗諦)と、分析で究極認識し得る存在(勝義諦)の、全ての存在は自体の本質が空で究極にはない」ために全ての存在は自空であるとします
(それに対し)他空とは「世俗諦の存在は究極にはない、自体の本質が空なので自空ですが、勝義(諦)の界は究極あるので自体の本質は空でなく、しかしながら空性であるのは、他である世俗の主体・客体など錯覚・誤解全てが空なので、勝義諦は他空である」と理解します
ですから世俗諦が自空なのは共通しますが、勝義諦を自空とするかしないかの差になります

世俗諦と勝義諦の考え方も違います
自空派は輪廻・涅槃における存在の現れは(全て)世俗諦であり、それらの本性がない性質の事を勝義諦と考えます 勝義諦も錯覚・誤解を全て離れただけのもの(完全なる否定)の事です

他空派は常恒と有為転変する存在、認識主体と客体など相対するものに含まれる存在全ては世俗諦、勝義の(法)界と無別の自証の智慧を勝義諦とします

ですから(この場合の)勝義諦とは、錯覚・誤解を離れただけではない主体客体双方の錯覚・誤解のない意識(知)の事を指し、錯覚・誤解を離れただけである虚空のような空は物質の空や存在しない(錯覚上の)空を指します
ですから自空派は勝義を完全否定の無為の存在とし、他空派は勝義を有為ですが要因や条件で新たに生じない、昔も今も未来も常に不変で常固、永遠なので断見に陥らず、錯覚・誤解全てを離れるので常見に陥らない、言語表現を離れ、共通概念でこのようなものと言えないので議論を離れ、ただ自身の自証の智慧で経験する境地を指します

そんな訳で(他空派の場合)三性で、依他起性の存在は(本性と)錯覚・誤解を起こす意識、遍計所執性の存在はその意識に現れる(本性と)錯覚された存在、円成実性の存在はその意識が認識主体客体の錯覚の空として自証の(智慧として)本質が空でないものの事ですので、遍計所執性の存在は名前や共通概念だけの世俗にもない存在、依他起性の存在は世俗としてあり勝義にはない存在、円成実性の存在は勝義としてある存在なので、遍計所執性の存在はそれ自体の力で本質すらない存在、依他起性の存在はそれ自体の力で生じる本質すらない存在、円成実性の存在は認識主体客体の本質がないので、勝義でかつ主体客体の本質自体ない存在です

そういう訳で、自空派ではその存在とその本質すらない事で全ての存在は空性としますが、世俗の存在の、その(世俗の)点では空性とはなりません

例えば灌頂瓶は本性がない面で灌頂瓶が空性としますが、世俗の灌頂瓶の面は空性とはなりません、ニ諦を同一本質とするなどに欠点があるからです

他空派の場合、空性が勝義諦とは限りません 遍計所執性の存在は無である空性、依他起性の存在は有である空性、円成実性の存在は本性が空性とするので、存在であるなら空性であると確定します

そういう事で、自空派では存在であるなら空性であると確定されません、空性は勝義諦のみ、空性であるなら錯覚・誤解を離れた界のみと確定しますから

他空派はその真逆で、勝義諦である空性の中心は意識のある面を指し、勝義の(法)界は「究極の唯一の存在か複数の存在かを離れる」という論拠などで世俗の共通認識を離れ、世俗諦とは違うので(いわゆる)共通認識で否定される点はありません

世俗諦で無為の存在は本質がなく、有為の存在は時間・空間で限定的に認識にされる存在なので共通認識で知られます

(勝義の主体客体)不二の智慧は時間・空間に限定されず共通認識に(直接)認識されません この智慧は一瞬一瞬の違いや一瞬の過去・現在・未来という三時の時制の分析などで時間に制限されないので、過去(の不二の智慧)・現在(の不二の智慧)・未来(の不二の智慧)は存在しません 知の根本は(煩悩による錯覚・誤解のない)空であり、同じく(他に依って成立していないので)勝義諦は縁起の存在とも想定しません

そんな訳で、意識には一般的意識と智慧の二つ、知には自らの認知と他の認知、空には自空と他空、存在には一般的存在と法性としっかり分別して全ての現れは心と想定し、仏様の色身は他の有情の現れに含まれるので仏と想定しません

心の煩悩に汚れていない部分は仏の要因であるだけでなく、そこには仏の徳全て不可分の本質として具わってますので、有情の心には(仏の)三十二相八十種好全て、六十二の徳で飾られた仏様がその徳と不可分の状態で居られます(から、煩悩障・所知障を断てば、成仏するのです)

(ただし煩悩に塗れておりますので有情は)仏様ではなく、成仏したとも思いません (ですので)普通に有情が(そのままで)仏様であるといった誤解はありません

心の法性(空性)は仏であり、法性とは煩悩からの錯覚・誤解を離れた、(意識の)明らかにする妨げられない性質を指します

これは無漏の(煩悩からの錯覚・誤解を離れた)連続する意識の流れとして顕教の経典に説かれていますので、(論理的に分析しただけでなく)根拠もあります

(ですから)有情か仏かをどこで判断するかは(どの状態の)意識の流れかで判断されます
(また現れは心と言っても)物質と意識は共通点のある集まりではありません、実際物質は物質、意識は意識で共通の存在はないからです

という事で、以上が他空の教義の根源的部分であり、苦諦・集諦・道諦の存在は世俗諦で有為の存在、究極にはありません

滅諦は勝義諦で無為の存在、究極の存在で仏の御心の道諦とされる部分は滅諦と不可分なので勝義諦、無為の存在です そのような滅諦も空、虚空の如きではなく、偉大な自証(自らを知る)で、苦諦は(智慧で見ると)その本性の滅諦、集諦はその本性の道諦と、滅諦・道諦として断ち理解した本質と不分離であるとも言われます

私は(教義への)拘りはありません、これらが究極の教えに本当につながると思います 中観無自性派の中でも瑜伽行中観派が究極の教えにつながります 無上瑜伽タントラのお考えにも他空は明らかですし、自空でも瑜伽行中観派が究極の教えからしっかり影響を受けていると見ています

自空他空の分別を明らかにした分かりやすいもの、一旦ここまでとします

偉大な持金剛、(サキャ派の)ラマ、チャンバ・ガワン師より、「自空・他空の分別を明らかにした分かりやすいものを書いて送って教えをお守り下さい」との事でしたので、ターラナータが書いて送ります

自空・他空の分別 了義の入口 終

インドからチベットに伝わった文化である「仏教」を仏教用語を使わず現代の言葉にする事が出来たら、日本でチベットの教えをすぐに学べるのに、と思っていた方。または仏教用語でもいいからチベットの経典、論書を日本語で学びたい方。可能なら皆様方のご支援でそのような機会を賜りたく思います。