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確定する認識という燈明 意訳 2

前回のミパム・リンポチェの続きです。
ニンマ派の空の見解の意訳になります。

写真はネパールのお祭り、ティージ祭りにネパールの方からご馳走になったカレーです。大変美味しいかったです。

以下本文

②(仏・菩薩が理解するように)声聞・縁覚の阿羅漢は人無我と法無我を理解するのか

一部の方々は声聞・縁覚の阿羅漢は(人無我のみを理解し)法無我を理解しないと言います 「(私の)五蘊」という五つの括りを(他と関わりない実体のある)「私」だけに属する存在などと把握する(錯覚上の)本体・実体を伴う「私」が排除されるまでは(私に)我執はありますから (もし声聞・縁覚の阿羅漢が法無我を理解しないなら、涅槃に入る事、)煩悩を断つ事がなくなります

(また人無我の土台である)「私」も五つの括りに依り名付けられただけの存在で生来的な我執の対象であるのに、(人無我の土台である)「私」と(法無我の土台である)「灌頂瓶」などに 空として(分析する)土台として差がある以外空のあり方においては差はありません 存在と有情いずれにおいても本性を持って成立している存在はありません 

ですのでそのように経論と正しい論理とのどちらでも(声聞・縁覚の阿羅漢は空を)直接認識するにもかかわらず 声聞・縁覚は法無我を理解しないと言うのは単なる主張です

それより(逆にゲルク派は)大きく言い過ぎで 声聞・縁覚・大乗の見道(聖者になり初めの無我の対象)は同じであり優劣はないと主張します (つまり)般若経典、密教経典など顕密の経論全ても(空において様々な優劣を説くのでそれらを)説かれた通りではなく解釈します

そうなると(例えば)小乗の阿羅漢を経験した方が大乗の見道を得た時に断つ(障碍となる)煩悩が少しもないという欠点が見つかり(その)論理に穴が生じます 

その他にも、認識の対象は(同じものを)理解しているのに(大乗の)断つ(障碍となる)煩悩を断つのに(菩提心などの)影響が必須であると主張します

(もし声聞・縁覚・大乗の聖者が同じ無我を)理解しないなら(三乗の聖者が見道での認識の対象は同じものを)理解するという主張は自己矛盾しています (もし同じ無我を)理解するなら(声聞・縁覚が大乗の障碍となる)煩悩を断てないのは矛盾しています 太陽(の如き軍隊)が昇ったのに闇の軍隊を滅するのが他の(軍隊などの)力に依るというのは驚きです

(サキャ派などの)一部の方は、声聞・縁覚は自身の五蘊・五つの括りの空を理解しますがそれ以外の法無我を理解しないと主張します 五つの括りの空を理解するなら(虚空などの)恒常的な存在以外で(空と)理解出来ない存在はありません

そういう訳で、自派はというと吉祥なる月称論師の(入中論)自注に(あるように)
「煩悩を断つ為に声聞・縁覚に仏様は人無我を説き 所知障を断つ為に菩薩に法無我を説き尽くされた(と主張します)」

では声聞・縁覚共に空性を理解する方が居られると主張するのは何故かというと、声聞・縁覚は煩悩障を断つ為に人無我を瞑想しますが(その為に必要最低限の法無我の理解はされても)法無我を全ての存在において 瞑想する事がないとの通りです 

(ニンマ派の大学者)ロンチェン・ラプジャムパの主張に 
「以前の戒師全て(声聞・縁覚に法無我を理解される方が)居られる、居られないと議論されたが、私は昔の声聞・縁覚に色々見られたとしても阿羅漢果を得るには五蘊・五つの括りを実体・本体の空と理解しなければ、煩悩からの自由を得る事は出来ないので(その為に絶対必要な)法無我を理解する方は居られるも、あらゆる法無我を理解される(声聞・縁覚の阿羅漢)方は居られません
(それを)虫がカラシ種を食べて空けた穴のように声聞・縁覚のを最低限の(法)無我(の理解)と言います それで(その事を)最低限(と言わずほとんど理解しない事)なのを否定語で法無我を理解しない」と主張されたのです

これは極めて良い説明で この説明ほどのものは他にありません 例えば大海の海水を一口分飲んだら海を飲んでないとは言えないように存在に分類される「私」だけの 無我を理解する事で(声聞・縁覚は)空を見ると考えます 一口分飲んだからと海水を極め、理解し尽くせないように(声聞・縁覚は)全ての存在の本性一切を(極め尽くして)空と理解する事はないので、法無我を極め尽くした理解はされないと考えます

もし「ある存在の空を見たのに全ての存在で(空を)見ないのは何故か」と言う(議論をする)と声聞・縁覚が経論や正しい認識や口伝より分析すればそのように見るでしょうが、この段階での声聞などの涅槃を求める方は人無我だけ(の理解)にこだわるのでそれ以外を(空と)理解するのは難しいのです 

(例えば)灌頂瓶を名付けられただけの存在と考えつつも(構成する)素粒子は実体・本体のあるものと考えるようなものです もし灌頂瓶を名付けられただけの存在と理解する分別知で素粒子も分析すれば理解するでしょうがこの段階でそう理解しないのはそんな訳です

いわゆる物質と(それを構成するのが)実体を持った素粒子というのは (考えると)矛盾の現れとなりますが考える方にこの段階での論文や先人達の示唆がない事で問題ないと(理解に沿った)教義(定理)を主張します

同じく唯識派の方々も認識対象が実体を持たないなら認識存在もないと理解するはずですし、自立論証派は究極の実体がないとする論証で一般の存在も実体は成立していないと理解するはずなのです 

そういう事で「ある存在の空を見たのに 全ての存在で(空を)見ないのは何故か」といった論理のあなたには全ての教義は帰謬論証派(の一択)しかなくなる事になります 声聞・縁覚の方が大乗仏教を批判したり誹謗中傷する事もあり得ません

そういった訳で、ある存在の本性自体は全て(の本性)と同様なのですが(声聞・縁覚がその事を理解する)外的内的要因が揃うまで、その理解は遅々として進みません

一般に分析力の優れた方は自身の力で理解されたりもしますが、そうでない方は自身の力でその時即座に確実にと理解される訳ではありません

いつの日かはどうあっても(全ての無我を)確信されます(がそれは) 1万劫(もの長い時間)を空の禅定で過ごした後(の事で)煩悩を滅した(空の禅定の)世界から目覚め、阿羅漢は大乗の修行に入ると言います

通常通りに(初めから)大乗の道に進んでも 最低三大阿僧祇劫は修行に費やすなら声聞が涅槃を求めての何千劫程度の修行で全ての無我を必ず理解するとは言えないでしょう

(菩薩の)聖者の段階を得てから法界は次第次第に明らかに極まります 徳積みを助けに、あらゆる手段での正しい論理で、菩薩のあらゆる行いを回向するといったきっかけが揃えば、全ての無我を必ず極め理解します 方便に優れるきっかけ密教の力で短い時間で(無我を)理解するようなものです

(また)「常なる私(の存在)」を断っても固定観念からなる「私」の把握が(本体を伴う)五蘊(5つの括り)より(本体を伴って)対象に入ります

そういう事で、これら括りを(本体を伴って)把握する間は(本体を伴った)「私」を(錯覚して)認識するという(龍樹菩薩の「宝行王正論」の言葉の)意味は (五蘊など)名付けられた土台の括りが(本体を伴って)存在しそのように認識される間は、(本体を伴った)「私」と名付ける要因が揃うので、結果である我執を退けられないと言うのです 

いずれにせよ「常なる私(の存在)」を断っても、(私の五蘊など本体を伴った)名付けられた土台により名付けられた「私」に対する生来的な(本体を伴う)固定観念を排除しないので、我執が起こるのに邪魔は全く入りません

そんな流れで、煩悩を断つのに五蘊などの(極め尽くした)空の理解が必要であると説かれているのは(先の龍樹菩薩の句の)正しい解釈ではありません

ここの句の意味を月称論師はこのように解釈されました (自分自身を他によって成り立ち)名付けられた「私」でしかない存在と知る事で 我執を追い返すのには十分です 

(例えばそこに蛇と見間違う)ロープがないと知らなくても、「蛇だ」という錯覚は「そこに蛇がいない」と知る事で錯覚・誤解を退けられます

いつか(声聞・縁覚の阿羅漢)は必ず(空を極め尽くし)理解されます 全ての存在の本性(あり方)は同じで、空性を知る論理も同じですから、究竟一乗が成り立つと龍樹菩薩とそのお弟子様も言われました

もしあなたのお考え通り声聞・縁覚は法無我を理解し尽くされているなら、(理解する空の土台を極め涅槃に入定されている方に)、究竟一乗は成り立ちません、それはただの主張でしかありません

ここで(説かれる大乗の)双入の智慧はいずれも究極を見る認識と対象の空が無分別で、全ての聖者はその究極の状態に心惹かれ住して居られます

という事で以上の(無我の理解の)あり方を良く理解すると龍樹菩薩と無著菩薩の法流をお互い黒糖と蜂蜜のように同時にその味わいを楽に味わえ、他の消化出来ない食の(方の)ようにそれ以前の不快感のある消化不良の状態は経論と論理という鋭いメスを何度も振り上げ手術しますので(理解が消化不良の方は)心の底から震えます(痛みに堪えきれないでしょうから、気をつけて修行して下さい)

声聞・縁覚の阿羅漢は人無我と法無我を理解するのかの章・終

インドからチベットに伝わった文化である「仏教」を仏教用語を使わず現代の言葉にする事が出来たら、日本でチベットの教えをすぐに学べるのに、と思っていた方。または仏教用語でもいいからチベットの経典、論書を日本語で学びたい方。可能なら皆様方のご支援でそのような機会を賜りたく思います。