見出し画像

チベット仏教で正しい認識を究める

 チベット仏教と正しい認識

認識には正しいものと誤ったものがあります。

それは世間一般と一致する事で、誤解や錯覚は誤った認識、それに対し見た通り存在する視覚は正しい認識です。

チベット仏教を修学する僧院では、どの宗派も正しい認識が何であるかの探究を議論しながら学びます。その時にインドの戒師ディグナーガや戒師ダルマキールティの論理学や認識論に関わる著作を使用します。

大事なのは、お釈迦様は最初から正しい認識の方だった訳ではなく、様々な経験から錯覚や誤解や煩悩を取り除き、最終的に正しい認識の方になった、という所です。

これは顕教・密教のどちらに関しても言えます。錯覚や誤解があるのは決して悪い事ではなく、それが錯覚である事、誤解である事に気付く必要があります。

正しい認識を探究する中で、瞑想修行者は精神集中で煩悩が起こり難い事のプラスと、精神集中が途切れたら煩悩が起こらないとは限らない事に気付くと思います。

密教では観想、つまりマンダラや仏菩薩を瞑想しますが、そこでも精神集中のみで正しい認識による無我の理解がなければ、煩悩が起こらないとは言えず、時にはいわばイマジネーションとも言えます。

同じように無常観や無我の理解などが正しい認識に根ざしたものとなるまで、煩悩に対抗出来ません。逆に世間一般の存在から、菩提心や輪廻を厭う心など、煩悩を離れるのに必要なあらゆる物事を正しい認識で理解するよう努めるのは、煩悩に打ち克つ武器を作り出すようなものです。

という訳で、正しい認識の解説の紹介で、ニンマ派のミパム・リンポチェの量評釈の解説を一部分意訳しました。

この論書は経量部と唯識派の考え方に沿っておよそ説かれましたので、解説も中観派ではなく、それらに沿っています。

ダルマキールティの量評釈第2章 冒頭

そのように(量評釈第一章で正しい)推論の在り方をどのようであるかを理解した上で、正しい認識の経典(ディグナーガの著した集量論)の帰敬偈の内容通りに、この第2章では(ダルマキールティは)煩悩のない清々しさ(いわゆる悟り)への道が正しい論理で成立する在り方を説きます
1 お釈迦様を正しい認識の方と示す 、(そのために)① 正しい認識のいわゆる定義を説く(そのために)壱 正しい認識の定義を示す

正しい認識とは「誤りのない意識」の事です 
(どういう事かと言うと)「もし対象が現れただけで(意識としては正しく)誤りがない」と言うなら、月がダブって見えるような概念的思考を伴わない錯覚や、縄の固まりを蛇と把握するような概念的思考からの錯覚などいずれにも、錯覚の対象はあります(からそれは間違いです) (また)「対象は入手したものだけが正しい認識である」と言うなら、五感も推論も対象を入手せず(それ故)入手し続けません (また、だからこそ)「対象と(正しい)認識(の関係であるの)は正に一瞬なので、誤りのない(正しい)意識は存在しません」と言うなら、人が(認識)対象とする個々の有為の存在は (有為の存在同士互いに)影響する存在なので、一般的に分析したりすると(その存在として)認識したりします (互いに)影響を受けない(概念的思考による)存在を認識したり分析するのに(個々の有為の存在を認識するような)必要も能力もいらないのは先に述べた通りですから、(五感や智慧、推論など)これらの心により意味合いから規定して対象に留意すると、(存在の定義)その通りに影響する存在としてあるのが誤りでない事になるいずれも、その点で心が定義付けした通りの内容(存在を体感し、存在の体験)を得るので、正しい認識であると言います その(存在の定義)通りに(体験を)得る事で世間一般でいう正しい認識の内容は完成します
錯覚には意識が(その存在の実体験であると)規定するような実体の本質がありません (正しい体感には)その瞬間の分析も必要なく(その存在の体験を得るので)、誤りのない意識はそのように存在します
それにも「(正しい認識はその)働きとしてどの対象に対し誤りがないのか」と言うなら、規定する内容、(互いに)影響する存在(有為の存在)に対して(誤りがないの)です
「何が誤りがないのか」と言うなら、(正しい視覚などの直接知覚と正しい推論という)正しい認識の2つが(誤りがないの)です
「どのように誤りがないのか」と言うなら、(正しい認識が)それを持つと規定すると持つのが誤りがない、それを持たずと規定すると持たないのが誤りがないのと同じく、それであるものやそれでないものと(正しい認識が)規定した通りに実体を具えるから(誤りがないの)です
また「言葉で(見た事も聞いた事もない存在を)理解するのは、意識ではありませんが誤りのない正しい認識です」と言うなら、
いわゆる言葉からの正しい認識とは何を指しますか?
言葉から生まれる聴覚を指しますか、
聴覚から生まれる言葉による概念的思考を指しますか?
1つ目なら直接知覚の事です
2つ目なら推論となり得ます、(また)その聴覚も、それを話す方が伝えたい内容を伝えるのに根拠となる言葉を把握する心だから(それは直接知覚になるの)です 
「それならどうして推論なのか(、推論になり得るのか)」と言うなら、伝えたい方の言葉で示されたものであるその内容が、その方の(持つ)概念的思考(考え)をしっかり明らかにする(その内容の正当性ではない)、その点において(その)言葉は正しい認識(です)、その(言葉は概念的思考の)結果である(推論の)根拠だからです


インドからチベットに伝わった文化である「仏教」を仏教用語を使わず現代の言葉にする事が出来たら、日本でチベットの教えをすぐに学べるのに、と思っていた方。または仏教用語でもいいからチベットの経典、論書を日本語で学びたい方。可能なら皆様方のご支援でそのような機会を賜りたく思います。