見出し画像

「それ、どうしてそのときに言ってくれなかったの?」

 ここ最近の時事ネタについて色々と考えていたことを、ツイートだととっ散らかるのでこっちにまとめて書くことにした。

 私はとにかく見た目に難があり(オブラート表現)、小中高でそれぞれ一回以上はいじめられてきた。私が受けてきたのは主に無視だとかどこのグループにも所属させてもらえなかったりだとかの精神的なもので、暴力だとか人糞を食べさせられたりとかの身体的ないじめではなかった。それでも、高校の部活帰りで、同じ帰り道だった子たちが私を残してダッシュしていった後ろ姿を思い出すと今でも苦い気持ちになる。

 この当時の私に「いじめは許されることではない」「いじめっ子は一生許されない」などと正義の声で溢れる今のSNSを見せたら、どんなに喜ぶことだろうなと思う。

 が、元いじめられっ子として、こういった正義の声を聞くと別の気持ちが心の片隅にじんわりと浮かび上がってくる。

「それ、どうしてそのときに言ってくれなかったの?」と。

 いま正義の声をあげる人たちの何割が、その正義を実際に行動に移したのだろう。
 明らかにあぶれている子を、自分から仲のいいグループに誘って入れてあげた人はどのくらいいるだろう。
 特定の誰かに無視をする人たちを見て、「そういうのは良くないんじゃないか」と咎めた人はどのくらいいるだろう。
 悪口や暴力に晒されている子を庇ってあげた経験のある人はどのくらいいるだろう。

 私が覚えている限りでは、そういった手をリアルで差し伸べられたのは片手で数えるほどである。たぶんこれでもいじめられっ子の中では多い方だと思う。下手したら、一度も手を差し伸べられた経験のない人もいるだろう。

 もちろん「自分は救いの手を差し伸べてきた」と胸を張って言える人もいるだろう。だが、そういった人は残念ながら少数派で、目の前で行われているいじめを見過ごした経験のある人の方が圧倒的多数だと思う(かく言う私もそういう経験があり、今でも振り返って後悔する)。というか、実際に手を差し伸べられる人が多数だったら、そもそもいじめが社会問題になるはずがないのだ。

 しかし、元いじめられっ子の私からしても、目の前のいじめを見過ごすこと自体をあまり責める気にはなれない。いじめられっ子を庇ったり手を差し伸べるというのは、スクールカーストの中で相当高い序列にいるとかでない限り、クラス内での地位が下がる危険性を伴う行為である。なので、私を庇ってくれるような崇高な人にそのようなリスクを冒させるのは、申し訳なさが先に立ってしまう。

 しかし、声高に「いじめは良くない」「いじめっ子は許されるべきではない」と正義の言葉を叫ぶ人は、その正義を過去から今までどのくらい行動で示せていたのかを自問してほしいなあと思う。上でも書いたけど、個人的な体感として実際にいじめられっ子へ手を差し伸べる人は少数であり、大多数はいじめの傍観者として居た経験があると私は睨んでいる。

 なので、いま正義に沸いている人の中でも、少なく見積もっても半数くらいはいじめを見て見ぬ振りした経験があると考えている。
 予め書いておくと、そのような人たちに「お前は見て見ぬ振りしたからいじめっ子を断罪する資格はない」と主張したいのではない。そう断じる権利はこの世の誰にもない。

 私が主張したいのは、いま正義を声高に叫ぶ人たちに対して「それ、いじめを目撃したそのときに言った?」「言えなかったとしたら、それはどうして?」と自分に問うてほしいということだ。なぜ今は言えて、そのときは言えなかったのか。最近は、様々なトピックに対して「自分事として考えよう」と言われている。私がここに書いたことは、いじめという物事を自分事として捉える一環になりうると思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?