人間は過剰な動物である

「人間は過剰な動物である」というのは、精神分析によって与えらえる一つの定義です。千葉雅也の言葉を借りれば、人間はエネルギーを余しているのです。

人間は単に本能的な必要性だけで生きているわけではありません。
動物は、本能的必要性、即ち栄養摂取や繁殖などのためにとれる行動の幅が人間よりずっと狭いです。それに対して人間は、非常に多様な仕方で必要に応えます。人間の料理や性行動には、必要以上の過剰な快楽があるのです。

本能とは「第一の自然」であり、動物においてそれはかなり自由度が低いのだが、人間はそれを「第二の自然」であるところの制度によって変形します。ここでの制度には、「別様でありうるもの」という意味が込められています。逆に本能とは固定的で、そうでしかありえないものです。

制度は別様でありうる、しかし、いくらでも好きに別様に変えられるわけではありません。人間は多様なあり方をとりうるが、好きなタイミングでどうにでも変われるわけではないのです。

そして、人間の過剰さは、脳神経の発達故だという説明が一般的にはされています。そのために他の動物より認識の多様性を持っているのだと。

一般に、動物は生態に近い形で生まれてきますが、人間は未完成の状態で生まれてきます。人間の子供は神経系的にまだ纏まっていないため、生まれてしばらくは嵐の中にいるような状態なのです。
そして、だんだんと成長しながら教えられることで、事物を一対一対応的に認識できるようになります。

そもそも過剰であり、纏まっていない認知エネルギーをなんとか制限し、整流していくというのが人間の発達過程なのです。ノイジーな状態から固まっていく。教育とはまず、制限です。

その最初の行為が、自分が名前で呼ばれ、そして周りのものの名前を教えられることです。「これは何々である、それ以外ではない」というのは、まさしく制限です。

これまでの説明にあったように、人間は認知エネルギーを余している。
そして、精神分析において、自由に流動するエネルギーのことを、本能と区別して「欲動」と呼びます。

欲動の向かう先は一対一対応ではなく、自由で定まっていません。
人間の根底には、哺乳類としての本能的次元があるにはありますが、それが実際にどのように発動するかは非常に多様であり、欲動という流動的なかたちに変換されているのです。(という仮説が精神分析には用いられている)

何か特定のものに強い好みを持ったり、同性愛目覚めたりするのも、自由な配線が欲動の次元で起こるからです。本能的、進化論的な大傾向はあるにせよ、欲動の可塑性こそが人間性なのです。

これはかなり極論的ですが、本能において異性間での生殖が大傾向として指定されていても、それは欲動のレベルにおいて一種の逸脱として再形成されることによって初めて正常化されることなのです。

このような欲動のレベルで成立する全ての対象との接続を、精神分析では「倒錯」と呼びます。したがって、人間は本能のままに生きているということはなく、欲動の可塑性を常に持っているという意味で、人間が行うことの全ては倒錯的ということになります。

我々が正常と思っているものも「正常という逸脱」「正常という倒錯」なのです。

全ての人間を倒錯的なものとして捉える発想は、ジャン・ラプランシュという精神分析家が示しています。

このような可塑性から生じる逸脱を、人間らしさと捉えるか、単に不可解な脱線と捉えるかで、人間という種の可能性自体も変わってくるのではないでしょうか。

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