「考えること」を楽しめる余白 - 内野すみれ
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「考えること」を楽しめる余白 - 内野すみれ

Loohcs高等学院の教職員が、学校や教育についての思いの丈をつづるnoteシリーズ。
初回は、学生から「すみれちゃん」と呼ばれ親しまれている、教員の内野すみれさんです。

     <学生に聞きました!すみれちゃんってどんな人?>
・ずば抜けたコミュニケーション能力で学生みんなを包み込んでくれる、みんなの嫁
・迷った時、悩んだ時にいつでも相談に乗ってくれる、かわいいお姉さん
・毎朝声をかけてくれて、その日1日を頑張れる!
・知れば知るほど変な人。でも勉強を教えるのがすごく上手
・賑やかな人なのでエネルギーをもらえる!

さて、そんな内野すみれさんは、一体どんな思いを抱いて学生たちと日々向き合っているのでしょうか?

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内野 すみれ(うちの・すみれ)、1993年鹿児島生まれ、東京外国語大学国際社会学部卒業。大学在学時から教育系の学生団体や一般社団法人で活動。ルークスではリベラルアーツや一般受験対策など幅広く教えている。趣味はフィクション鑑賞、文章執筆、学生とのボードゲーム。


こんにちは。Loohcs高等学院教員の内野です。

突然ですが、みなさんにとって「楽しい」瞬間はどんなときですか。
友人と遊んでいるとき、漫画を読んでいるとき、スポーツをしているとき、推しを愛でているとき、人それぞれであると思います。
わたし個人としては、広く浅い多趣味な人間なので、趣味に没頭している時間ももちろん楽しいのですが、いちばん楽しいのは人と話しているとき、正確に言えば、「何かを考えながら人と話し、さらにまた考えているとき」です。

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学生とのボードゲームは毎日楽しい。「語り」のあるものならなおさら。

ごく個人的な話を少し続けます。
もしも、いままでの人生のある日に閉じ込められてしまうとしたら。せっかくだから楽しかった日がいいですよね。わたしは明確に「その日」があります。
それは、大学3年生ころのとある日です。当時、運営に参加していた学生団体の中のある6人で、「物議」というものにハマっていました。それはわかりやすく言えば、答えのない問いについてひたすらに議論して考える、という営みです。「議論」と呼んでしまうと、なんだか答えを出すことが目的なように思えてしまうので、わたしたちは「物議」と呼んでいました。
その日の物議のテーマは、「『やらない後悔よりやった後悔』という言葉があるが、本当か?」というものでした。結論を導いたところでさして得にもならないような、くだらないと一蹴してしまえばくだらないテーマです。しかし、わたしたちは真剣でした。「後悔」を定義し、あらゆる事例を調査しながら、後悔までのルートマップを作り、時には数式にできないかを模索し……。ホワイトボード一面を埋めては、消してまた埋めていきます。論理を追うだけではなく、「なんだかそこは気持ち悪い感じがする」「気持ち悪いのはなぜ?」など、感覚も大事にしてあらゆる観点からその問題を掘り下げました。
「物議」の中では、「まさかそんな考え方が」と驚くような道筋が見えたり、そこで生まれた概念に新たに名前が付けられたりします。その過程が、本当に楽しい。脳内がパチパチ弾ける感じがします。
あまり好きな言葉ではないですが、これがきっとわたしの「原体験」なのでしょう。あのころ、初めて「考えるって本当に楽しい」と思えたのです。

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当時の「物議」の写真。右女性は今や同じルークスでチューターとして一緒に働くことになった田中さん。

わたしはいわゆる地方進学校の出身です。しかし、高校生のころのわたしは、「考えること」を本当に楽しいとは思えていなかったと、今なら思います。
一般的な高校の「勉強」というものは、いわばパズルゲームです。問題に型があり、適切な型を選んで適切に処理すれば「解ける」。考えるというよりは、上手く対処すると言った感じでしょう。
注釈として言っておきたいのは、わたしは何もパズルゲームを否定したいわけではありません。実際一時期パズルゲームにどハマりし、2000面ほどクリアしたことがある身ですし、悪く言うつもりはありません。「解ける」「解答に丸がつく」ということは、たしかにある側面においては楽しいものだと思います。
一方で、人生はそうそうパズルゲームのようにはいかないのもまた事実です。正解の型がない中で、足掻きながら考えなければならないことは多々あります。あるいは、足掻く必要なんて一切ないのだけれど、どうにもこうにも自分にとって考えないわけにはいかない、そんな問いも生きているとあるものです(「やらない後悔より~」って何、、、?というような)。もしそんな場面で、それについて考えることを(苦しみながらでも)少しでも楽しいと思えたら、人生がその分豊かなものになるのではないでしょうか。

わたしはそんな楽しさを大学時代に見つけ、そしてここルークスで再確認しました。

とある数学のリベラルアーツの日。その日は他の教員が授業を担当していたので、わたしは学生と共に席について一学生として一緒に学びました。その授業のグループワークで、「三平方の定理を証明してみよう」というものがありました。これ自体は、普通の数学の教科書にも載っているかもしれないので、ある種パズルゲーム的な処理もできる問いかもしれませんが、そこで教員がポロッと、「三平方の定理の証明は100通りくらいある」と言いました。「100」という数字に、わたしのいたグループはなんだか火がついてしました。「できる限り多く見つけよう」。
机に大量の紙を広げ、各々が思い思いの図形を書いたり、計算式を作ります。1つはわりとすぐ見つかりましたが、2つ目以降がなかなか見つからない。お互いに「こう考えたんだけどここで詰まった」「それは新しい発想だ!」などと言い合いながら、夢中に試行錯誤しました。異様な盛り上がりを見せ、他のグループは次のワークに移行しているにも関わらず、わたしたちはその問いにこだわり、結局時間いっぱい考え尽くしました。最後は全員ヘトヘトになってしまい、書き殴った図形の横に白旗の絵を描いてしまうほどでした。最終的に見つけられた証明は2つか3つで、それはつまり「解けた」「丸がついた」のはその程度だったのですが、授業が終わってから実際のたくさんの証明を検索して全員で眺めながら、「うわ、この考えこうやればいけたんだ」「このやり方はずるくない!?」なんて言い合った時間も含めて、「みんなで真剣に考えて話した」あの時間自体が、本当に楽しく、充実したものでした。

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実際の試行錯誤の様子。なぜかハサミまである。

この例は言わば「答えのある問い」ですが、「答えのない問い」を考える、つまり先ほど書いた「物議」的な場面も多くあります。倫理学の授業で、「安楽死の是非」という重いテーマを取り扱っても、学生たちはみな真剣に考えを出し合ってくれます。そしてそこでは、たとえ意見が対立しても、相手の意見を頭ごなしに否定するのではなく、なぜそのように考えるのかを尋ね、傾聴する文化があります。

ルークスの持つ大きな価値の一つは、このように「考える余白がある」ことだとわたしは思っています。

schoolの語源はギリシャ語のスコレー、「余暇」を意味する言葉であるというのは有名な話です。厳密には、スコレーはいわゆるわたしたちがイメージする「暇」と言うよりは、「学問や芸術に専念し、幸福を実現するための自由で満ち足りた時間」といったような意味だったそうですが、歴史を学んでみると、古代の学者は往々にしてお金持ちで「暇」であり、その「暇」を満たす楽しみとして学問に勤しんだという側面は多分にあるでしょう。かの有名な哲学者であるソクラテスは、(さほど裕福ではなかったようですが)街で出会う人出会う人に問答を吹っかけていたとか。現代でソクラテスと同じことをやろうとすると、それはまぁあけすけもなく言ってしまうと「暇人」しかできないでしょう。実際、わたしがかつて「『やらない後悔よりやった後悔』とは?」なんて物議が、(物好きな人間が)6人も集ってできたのも、当時全員大学生で「暇」だったからです。今となっては全員忙しく働いており、年に一度集まれればいい方で、なかなかそんな時間もとれません(とはいえ、物好きたちには変わりないので、ときどきメッセージグループで思い出したように大盛り上がりすることはありますが)。

ルークスは、「Loohcs」、つまりschoolをひっくり返した綴りですが、そこには「本来のschoolの意味である『余暇』を取り戻したい」という意味も込められています。わたしがかつて普通の高校生だったころは、朝補習に始まり、みっちり授業で知識を詰められ、部活をして塾に行き、帰宅してからは明日の授業の予習と、かなり忙しくしており、「考える余白」としての「暇」な時間はなかなかありませんでした。
しかし、高校生であるこの時期にこそ、「余暇」の楽しさに触れてほしい。「考えなければならない」わけではないようなことを、真剣に前のめりになって考えて、時には脳が擦り切れるような状態にまでなって、「頭使って疲れたけど楽しかった」なんて思ってほしい。そしてそんなことをしていると、知識がなければこれ以上進めない、という壁にぶつかりもするでしょう。そこで吸収した知識は、ただ漫然と受け取ったものよりも、何倍も身に沁み方が違うものになっているはずです。

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こちらはルークスの「議論ゼミ」において、人はなぜ「なんでもいいよ」と言ってしまうのかについてメンバーで考えた図。最終的にはアプリ開発の話になりました。

あらゆる角度から考えて考えて、何か新しいものを掴んだとき、視界がパァッと開けるような、世界の明度や彩度が増すような、そんな感覚になります。リベラルアーツは本来「自由になるための学問」という意味ですが、現代においての「自由になる」とは、ある一面的な見方に囚われず、世界をクリアに多角的に見ることができている、そんな状態なのではないかとわたしは考えています。

「人間は考える葦である」というパスカルの言葉もあまりに有名ですが、せっかく人間に生まれたんですから、「考える」ことの楽しさを知っておいて損はないでしょう。わたしは教員ではありますが、これからも学生と一緒に、同じ目線で、たくさん考えて考えて、まだまだ新しい世界を見つけていきたいと思っています。

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