陰桐 志那:Ms.Negativity -into instinct
怖かった。逃げまどっていた。痛かった。恐れていた。
息を吸うたびに冷えきった空気が喉を通り、ひしひしと声帯をきしませながら心臓に針を刺してくる。
脚が竦む。だというのに、膝の関節は微動だにもしない。
「畏怖」という釘を「実感」という金槌で背に打ち込まれ、貫通したような胃の中で吐瀉物になるはずのものが蠢いている。
首の骨が悲鳴を上げ、何もかもに諦めが付いた人間の風体を醸して、頭を垂れる他に逃げ道はなかった。
恐怖も、悲哀も、苦痛も、喘鳴も。
まるで度が過ぎたかのように、身体で受け止め過ぎた暁に何も感じなくなった。
もう、何も無い。
ただ虚空の中に色もなく眼前を漂い続けて、今もなおその形を変化させている「絶望」を除いては。
形を成せないで生きる人間に取り憑こうとしている"奴"は、私と同じなのか。
何もできない、存在意義など消え失せた、そんな人間と呼称されるのにはあまりに不釣り合いな命。
この「絶望」と、私は何の遜色もないのではないか。
だから怖くも、悲しくも、痛くもないのではないか。
自分こそがそれらに値して、他人を貶める以外に何もできないから。
それくらいなら、もう「絶望」と変わらないのではないか。
「絶望」と私は等しい関係なのか。
...違う。
私が「絶望」の一員なのだ。
人間が味わうことのできる「絶望」の破壊力はこんなものではない。
殺人も、自殺も、手中に収められるくらいに易く貶められるのだ。
それに比べて私に何ができる。
ただの恐怖感など世界に隈なく存在しているという。
私など、一つの「絶望」に徴兵された世界におけるゴミなのだ。
世界を敵に回す、この黒い煙のようにだらしなく踊る「絶望」にすら必要とされていない。
生きたまま燃え盛る炎に炙られ灰と化しても、それがいずれ風に吹かれ煙たい空に散りばめられても。
それに手も指も、差し出してくれる人間などいないのだ。
億に一ついたとして、私が既に「絶望」に飲まれた人間だと知れば命に価値など見出すことはできないだろう。
存在、生命、言論、時間、権利、自由、理想像。
何もかもが無駄。
価値などない。
要らない。
全ては、心の内の全てを否定するからだった。
*
「ねぇ、志那もそう思うよね?」
「……え」
昔から、頷くのがどうしても辛かった。
何でも「はい」とか「YES」とか、無神経にでも言える人になりたかった。
誰かが言った何かに対して肯定することは、とても良いことだと私は思う。
共感をすれば誰かが寄ってきてくれるのだろうし、それにおいては「類は友を呼ぶ」なんていうことわざまである。
イエスと申し出すのは、きっと人生を豊かにしてくれるのだ。
でもどうしてか、それが自由に言い出すことができなかった。
誰かが認めてほしいことを提示してきたときに、それを躊躇なく肯定することが難しかった。
「そうだよね」、「そう思うよね」、そう言われては何もできずに俯いてやり過ごしたことが何度あったことか。
何を言うでも中途半端に終わって、賛否両論の真ん中にいないと気が済まない。
クラスの花として名をはせる篠原恵美は、そんな私のおどおどした姿をじっと見つめている。
その取り巻きらしき三人を引き連れて、薄目で、今か今かと返答を待っている。
しびれを切らしたのは、まもなくのことだった。
「あー、いや、やっぱなんもないわ。ごめんね志那、私たち先行ってるねー。」
「あ、えっと、ご、ごめんなさ………」
『肯定』に対する抵抗感。
その先にあるのは、いつも疎外感だった。
首を縦に振るという簡単なことだけが、できなかった。
「…で、そんなこと相談するために来たってわけ?」
「そ、そんなこととか言わなくてよくないですか…?」
二人きり美術室。今話しているのは、島田寧子。私の通う中学の先輩であり、私の親友だ。
…一応"恩師"ということになってはいるものの、それは私からしてみれば形式上という感覚だった。
彼女を一言で表すなら、そう、「我田引水」。ただ決して悪い人だという意味ではない。むしろ口調や態度を除けば良い人だと思っている。俗にいう「根は優しい」とか、そんなところだ。
事実、彼女は入学して間もない私に始めてフレンドリーに接してくれたのは彼女だ。
部活も違えば小学校からの友達との繋がりも一切ない、もちろん学年も違うから、本来は接点がないはずの人だった。
それに彼女は、所構わず感じた愚痴はすぐに零す性格なゆえ、私にとっては少し都合がよい。
私は今「愚痴ならいくらでも聞きますから」という交換条件のもと、ちょっとした悩みを吐き出すという建前で、『肯定』への抵抗感を打ち明けたのだ。
…が、それが真剣に取り合ってもらえるかどうかは、どうやら別問題という雰囲気を感じる。
「第一、志那は肯定とか否定とか、そういうのいちいち考えすぎなんじゃない?別に大体の人は、目についたもの全部に甲乙をつけてるわけないんだし。」
「そうは言っても…寧さんだって描いた絵を褒められたら嬉しいって言ってたじゃないですか。こう…何かを認めるとか、純粋な気持ちで称賛するとか、そういうところができないのが悩みだって言ってるわけで…」
…まったく、彼女に私の意見は伝わってるのだろうか。
「そりゃあそうだよ、だけど、志那は一個勘違いしてる。『肯定』と『賛美』は違うの。そもそも肯定って、志那が思ってるよりリスキーなんだよ?一歩間違えばモラルやルールからはみ出したことまで許可したり、同調したり、助長したりする。それに対して賛美っていうのは、何かの良いところをピックアップして好評価を付けること。もし志那が他人を素直に褒め称えたいってだけなら、まず肯定・否定って単語を脱ぎ捨てないと何も始まらないと思うけど?」
「ん、んん……そういうもんですか……」
いまいち伝えたいこととズレているような気がするが、それすらも気のせいなのかもしれない。
果たしてこれが何の解決に繋がるのやら…
「……それでもYesとNoで迷ってるなら、別に無理して肯定する必要ないんじゃない?」
「……?」
そう言うと寧子はガタンと椅子を退かして立ち上がる。
「何かをバッサリ否定する人はいくらでも居る。誰も志那に肯定しろなんて言ってないでしょ?もうちょっとわがままに生きろ、陰桐志那!なんつって~」
「え、えぇ……?」
頭の中が混乱する。
どうすれば肯定が自然にできるか聞いているのに、これではとんだ的外れだ。
そう言おうかと思ったがやめておいた。
彼女が本気そうだったからだ。
失礼にもほどがあるが、寧子の短所なら多くの人が挙げられることだろう。
その中の一つに、「まず否定から入る」というものがある。
個人的にそれは悪い意味で尊敬できるほど大きいものなのだが、よく考えてみれば必然な気がする。
寧子と話していれば分かるが、彼女も私と同じくらい人付き合いが苦手なのだ。きっと私と同じことで悩んだことも、一度はあるのだろう。
だからその打開として、「否定から入る」ことを選んだ。
要するに、我田引水になってでもいいからはっきりモノを言った方がいいということだ。
「んじゃ、私この後補修あるからまたね~」
「ね、寧さん……!」
彼女はそそくさと教室のドアを開けて出て行った。
去り際に親指を立ててはにかみながら。
「……」
良い意味でも悪い意味でも、言葉を失っていた。
私は座ったまま、寧子の去っていった先の扉を見つめていた。
なぜ「愚痴を零す代わり」という交換条件を守らなかったのか、彼女にしては珍しいことに対して疑問を抱きながら。
*
私には一人前の自由も、友情も、愛情もあった。
それをすべて共有してくれる、家庭があった。
暖かく私を迎え入れてくれる場所があった。
ただでさえお金には苦労した母子家庭では生活を維持するのに精一杯だと、仕方なくも遊んでくれなかった私を、意見をまともに言えない悩みを抱える私を、ずっと見かねて抱き締めてくれた。
身体の芯から温度を差し出してくれた。
心が落ち着ける、安らぐことのできる憩いの地が。
学校の、ましてや世界のほとんどの人間において与えられた存在が、私にもあった。
「お母さん、私…あの……」
「ん?どうしたの志那?」
「えっと…その…お母さんが前に使ってたイヤリングあるじゃん…」
「うんうん…あの真珠のね…」
「あ…あの……昨日の習い事のとき、勝手に付けて行って…その…」
「……」
「…….なくしちゃった。ご、ごめんなさい……!」
「そう…そうなのね……それは…」
「よかったじゃない!!」
「……え?」
「だって!志那がアクセサリーに興味持つなんて初めてのことでしょ!?それに真珠のイヤリングっていうチョイス!!まぁ~ハイセンスよ!!それにお母さん、志那にはあれが似合ってるって思ってたし!!」
「え、えぇ、ちょっと待って…?お、怒ってない…の……?」
「逆になんで怒る必要があるのよー!むしろお母さんからしたら微笑ましくて堪らないんだけどー!?」
「で、でもなくしちゃって…せめて弁償するから……」
「ん~?いや、あれお母さんが作ったやつだよ?」
「…え、ええぇ!?あ、あんなキレイなのを…!?」
「あんなのなら作るのに一日もかかんないって~!あ!ちょうど今材料余ってるし、作り直すついでに志那の分までオーダーメイドしてあげよっか!」
「えぇっ、えっとっ………い、いいの…!?そんな…えっと…あ、ありがとお母さん…!?」
あのときの温もりが、まだ手に触れられる距離にあった。
だから、
「なぁ陰桐ぃ!お前彼氏いるんだってぇ?」
「は、はぁ……!?い、いないけど……..」
「でも俺見ちゃったんだよな~、お前が鷺坂と帰ってんの!」
「知らないよ…何が言いたいの?」
「は?逆にお前が何言ってんだよ、お前の友達も見たつってるし、なんなら鷺坂も認めてんだけど?」
「え……ま、待ってよ、どういうこと?桃矢くんが?本当に知らないんだけど……...」
「はぁ…マジでねぇよ陰桐、お前が鷺坂とどうなのか隠してぇかもしれねぇけど、お前それあいつにとっても迷惑だぞ。」
「なに…言って……」
「あ~あ、お前が普通に言えばよかったのにな~!wおっせぇんだよ陰桐!おーいお前らー!陰桐と鷺坂、できてるらしいぜ~!w」
「ちょ、ちょっと……!なにすんの………」
クラスの隅から複数の哄笑の声が響く。その声を聞きつけた数人は、石本や篠原の取り巻きと話し、同じように私を見てあざ笑う顔を浮かべた。
よく見れば、影に隠れて鷺坂桃矢も汚く笑っていることにも気が付いた。
私は、この集団と、こいつらがしていることの意味を、心のどこかで理解していた。
だから、お母さんには、何も話さないようにした。
だってお母さんは、誰より優しいから。
きっと今教室の中で起こっていることをありのままに話せば、お母さんは私以上に怒って、私以上に深刻なこととして捉えるのだろう。
私には、それが怖かった。
これ以上、お母さんに私のことで心配かけたくなかったから。
ただでさえ頑張って、辛い思いを乗り越えて、おんぶにだっこな私を抱えて生きて、それでも私には笑ってくれる、私のことを唯一認めてくれるお母さんに、これ以上迷惑をかけるなんて、私が許せなかった。
だから、お母さんには学校で起こっていることを何も知らず、今まで通りで居てほしかった。
それが無理だと知ったのは意外なほど早く、あのいじめが始まってから半年も経たない、中学一年生の11月のことだった。
「名乗りなさい!!!!!誰がやったの!!!!!!」
「ねぇお母さんやめてってばぁ"!!!!!」
教室が水を打ったように静まり返る。
お母さんが土足で教室に踏み込んだときは、クラスメートが騒いで叫んで騒然としていたにも関わらず、それを優に超越する程の声量でお母さんは叫ぶ。それと同じくらいの声で、私はお母さんに泣き叫ぶ。
怖かった。いつものように居場所のない教室から帰宅しようとする寸前、突如として教室のドアを破り捨てるように開けて入ってきたのは、私のお母さんだったから、それもある。
けど、本当に怖かったのはそこじゃない。
お母さんが開口一番に、鬼の形相をして「志那をいじめた奴、今すぐに白状しなさい!!!!!」と叫んだ、その圧倒感でもない。
また心配をかけてしまったという、罪悪感だった。
私のクラスの先生が、私がいじめられていることを俯瞰して知ったから、私に相談せずお母さんにそれを伝えてしまったのだ。
つまるところ、先生は何も悪くない。むしろ善意で、助けようとしてくれたのだ。そう、そうだ。悪いのは、無理に何もかも隠し通そうとした私だったのだ。
私は必死だった。こんなことをしては、私じゃなく母が先生に怒られてしまうし、クラスメートからもお母さんが迷惑な人間だと思われてしまう。
この際、私が今に加えてバカにされるかもしれないという危惧はどうだってよかった。ただ一人だけ、私を肯定してくれる人の顔に、私の一遇で泥を塗りたくなかった。
だから、これが私を守るための行動だということを分かっていたのに、私は必死でお母さんの腕を引っ張って止めた。
そのときお母さんは、私に何も言わなかった。恐らく、私が止めようとすることを見越していたからだろう。だから私は余計辛かった。
柔らかくて温かい善意が、なぜこんなにも痛くて冷たいのか、分からなくて。
結局その日は、お母さんの車で泣き伏しながら、不規則に揺れる車内で、いつの間にか眠っていたらしかった。
あれから、いじめはなくなった。
なくなった、というよりは、それが行動に起こされなかったというのが正しいのだろう。
きっと奴らの心の内側には、私を忌み嫌い、そして怖がる感情がなおも纏わりついて消えていないのだから。
ただし奴らには、私をいじめたくてもいじめられない理由ができた。
あの一件があったからには、次また陰桐に手を出せば、本気で何をされるか分からない。言葉だけでは済まない事態になりかねない。身の危険を、もはや本能的に感じているのだろう。
その代わり、お母さんはしんどそうだった。
当たり前だ。あんなことをした後に、何のお咎めもなしで平穏に過ごせるわけがない。
当然その翌日に、母は学校に呼ばれた。その内容は聞かなくてもわかった。数時間かけて経緯を話され、今の私の現状やクラスで実際何が起こったのかを聞かされ、「突然学校に押し入って怒鳴りつけるなんて、教員でもしないことですよ」とみっちり怒られたらしい。
そのことをお母さんは、学校から帰ってきたのちに、私を抱き締めて語ってくれた。
正直、嬉しかった。
冷静に考えれば、本人が話そうともせず、密かに行われていたいじめに対して、なぜあそこまで怒れるのか疑問だったし、やめてほしいと思うのが普通なのだろう。実際私も、「なんであんなことしたの」と問い詰めようかと思った。
でも、お母さんが私を抱擁しながら、私以上に涙を流している姿を見て、あれがすべて憂さ晴らしや過保護なんかではないということはよく分かった。
私こんなにも想ってくれる人がいるだなんて、思いもしなかった。
だからこそ、申し訳なかった。
きっと私を想うのにうんざりして、いつか突き放される。そのときが来るまで、迷惑をかけ続けるのかもしれないと思って、私自身が嫌いになった。
でも、家庭そのものが温かかったのに変わりはなかった。
それだけが、私の救いだった。
私が14歳になる、忘れもしない夏枯れの9月15日までは。
「お母さん………………?」
母は、亡くなった。
おかしいとは思っていたはずだった。
あの一件以降、暗い顔で仕事や家事をして、私の前でだけ優しく柔らかな表情と声を見せていたときから、違和感はあるはずだった。
数か月前に突然「体調が悪くなった」とだけ言って、私を祖父母の家に預けたときから、異変は感じていたはずだった。
それなら、おじちゃんからある日「お母さんに会えるみたいだぞ」と言われ、ガス臭い車で連れられた先が大きな大学病院で、そのベッドにお母さんが点滴台に繋がれていたのを見たときに、もっと確信を持つべきだった。
「大丈夫だよ」という母の言葉を、もっと疑うべきだった。何か大きなことを隠していると、察するべきだった。
なのに。
あれから数か月後、神妙な面持ちで私を無理やり連れてきた霊安室にあったのは、死に顔もまともに見れないように布を被せられた母の冷たく眠る姿だった。
「……………あ」
地獄だった。
生きる術にも恵まれなくて、目的もなくて、身体が軋むような苦しみに悶えて。
「なん………で…………….」
なにより、たった一人の家族の温もりが、肌から抜け落ちて。
それでも死ぬ選択さえできない、弱い人間になり下がった。
「なんで、なんで……….」
普遍的で災厄もないような人生を歩むはずだったのに。
「なんでぇ"ぇ"ぇ"ぇ"ぇ"!!!!!!!!」
あの日に全て壊れた。
霊安室の周りには母の親族が数人はいたというのに、私は喉がぐちゃぐちゃになる勢いで叫んだ。
泣きながら母の亡骸に抱きつこうとした私を、祖母が何も言わず止めた。
体で感じる全てのものが一つ残らずぼろぼろに崩れて、自分の中のものまで粉になりそうな感覚に脳と心を支配された。
喉の奥底に塗りたくられた油膜が凍るように、心から伝わってきた温度を前頭葉まで流し込まれている。
「あ…………..あ……………………..」
痛い。
...違う、私が感じているこれは。
痛いんじゃない、もっと辛い何かが私の中で渦巻いている。
きっと、寒いんだ。
暖かみをくれたあの手が消え失せた。
愛情を直に感じられる、あの肌が、もう。
この世になくて、これからは私がそれに成り代わらなくてはならないということ。
それを現実として目の前にドンと突き出された私は、極悪の思いでもうどうしようもなくなった。
それもこれも、何もかもが私のせいなんだ。
そう分かったのは、意外とごく最近だった。
私がズバリと誰かの意見を肯定できていたら。
「…お母さんが亡くなった理由、君には知る必要があると思うんだ。」
入院中、お母さんの面倒を見ていたお医者さんが言った。
シーツで遮られた個室で、お医者さんの声以外は何も聞こえなかった。
「どんな医師が診ても患者には心理的な悩みがつきまとうから、いちいち感情的になって患者を傷つけないように、医師は少なからず冷淡な性格になる」と、昔聞いたことがある。
私はこのときだけ、その冷酷な目と声が何より憎たらしく感じた。
「お母さんの死因、それはね….」
ストレスの過重で、何も言わず死んだ母を救えたんじゃないか。
『ストレス性胃潰瘍』、心理的な重圧により胃の内側が傷つくという肉体的な病気。
その原因は文字通り、過度なストレッサーによるもの。
つまりは、全部が私のせいだった、というわけだ。
医師は話を続けた。
きっと私が「やめてください」とだけ言えばそれ以上のことを知ることもなかっただろうが、私は声が出なかった。
人はあまりに悲しい事態に直面すると、自分は自分が泣くことも許そうとしないのだと、このとき初めて知った。
他にも私は、そのときいくつものこと知った。
母は入院中、「なんで、なんで」と譫言のように呟いて、毎日が暗い表情の中眠っていたこと。
最期には髪も肌も顔も乱れて、泣きながら吐瀉物と血を吐きながらベッドに横たわって露に消えたこと。
昔から母は体が弱く、前にも同じような内臓系の病気にかかり、手術でなんとか一命を取り留めたことがあるということ。
どちらにせよ、母は長くは生きられなかったといこと。
12歳の子供でも疑問に思うくらい、暗いことだけが頭にへばりついて離れなかった。
だというのに、本当に知りたかったことは教えてくれなかった。
母が入院中、私のことをどう思っていたのか。
死んでしまうほど大きなストレスの原因は、なんだったのか。
でも。
その答えはあっけないほどに、私が少し考えるだけで分かってしまった。
「…………全部。全部、私の…」
お前のせいなんだ。
「ヤバいよね、いつかやると思ってた」「てかそれ本当ならマジで人殺しじゃん」「私も殺されるかもしれないってこと?」「怖いよ、何なのあいつ」「誰か捕まえてくれよ、俺たち普通にしてるだけじゃねぇか」「早く教室出たほうが良いって」「殺人者が当たり前に生きてんの怖いよ」
「……………なんで」
気付けば、そうやって後ろ指を指される生活に逆戻りだった。
誰かから、そんな生ぬるいものじゃない。
みんなが素性を知っていた。
みんなに素性を"知られていた"。
母の死は私の責任。
そんなことが知れ渡っているのだから、そんな人間に救いを与えてやろうなんて慈悲に満ちた人間がこの世に一人でもいるだろうか。
そうだ、どうせ誰も私のことなんて助けようとしないんだ。
今からどれだけ徳を積んで善良な人間になったところで、あるはずのない、根も葉もない前科は私を呪い続けるのだろう。
苦痛に苛む日々を強制される、そんなことが当たり前になる以外に私が生きられる未来はなかった。
そうだ。
どうしようもないんだ。
今更現状を変えようとどれだけもがいても。
無意味。
愚行。
ならば。
そういうのならば。
世界が私を『肯定』しないのならば。
何もかも『否定』してやる。
誰しもが心の内に秘め、いざというときに差し出す「肯定を欲する器」に、『否定』という泥を詰め込んで。
私の脳ではそれを何よりも優先するほどに、心で堪らなく易い「いいえ」を引き出してやるんだ。
無理だ、辞めろ、黙れ、違う、変えろ。
「期待」の裏に存在する「失望」を、私を蔑み砕いた人間に、私の傷が癒えるまで。
永遠に注ぎ込んでやる。
ギロリと、私を揶揄した奴らを睨め付ける。
まるで粘着質の黒い油が世界を覆っているかのように、私と奴らが黒一色に塗りつぶされる。
目を丸くし、そこに涙を溜め、腰を抜かす奴らに。
私は声を投げた。
「お前らに私を睥睨する権利はない。」
「……………否定。」
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっ!!!!誰かぁぁぁぁぁぁ!!!!!!誰か助けて!!!!!!!!!!!!!」
「……お前らは私が憎いか?お前らは、私に何の恨みがある?私はお前らの母親を殺したか?私は親の仇か?…違う、違う違う違う。お母さんが死んだのは、私が否定ばっかりだから。私が否定しかできないのは、お前らのせいだ。…その罪を、死んで償え。愚民ども。」
怯えろ、逃げまどえ、痛みを感じろ、恐れろ。
私が凍らせたこの世界の空気を呑んで、鼻腔から声帯の奥底に至るまで氷塊の針で血を流せばいい。
お前がここから逃げられないことがどれほど愚かか、計り知ることもできない。
「煽動」というナイフを胸中に差し込んでいく感覚。
息を荒げる奴らの顔が目に浮かぶ。
恐怖で満たし、頭をこちらへと倒す他ないように差し向ける。
偽物の忠誠を誓わせてやるんだ。
歓喜だ、優雅だ、好奇だ、歓声だ。
何もかも私の手中に収まるかのようだ。
人を殴る筋力も、人に恐れられる体格もない私だ。
きっとあのままでは人権も何もない、世間から幽閉されて一生涯を終えて当然だ。
だから私は、人間の持つ人格を、内側から完全を以て破壊する。
今の私に「絶望」などという枠組みは似合わない。
不格好で、もはや恰好さえ示さないような流動の存在なんて認めない。
私は人間の根本から覆す、ただただ否定して痛みでのたうち回る人間の姿を見届ける役割を全うする。
最底辺の人間と呼ばれても構わない。
もはや、人間とは似ても似つかないのだろうか。
名づけるなら…そう、悪魔だ。
私は、圧倒的な力を手に入れたんだ。
*
───私は自問自答をしていた。
その力は、どこで手に入れたの?
私の中の何かが壊れたとき。
抽象的だね。
だってよく分からないから。
それは私に似合う力だと思う?
私しか持っていないから、当たり前だよ。
それはどうかな。
何が言いたいの?
何でもないよ。
もし他の人にも似た力があるとしたら、その力って、そんなに便利なもの?
うん。すごくすごく便利で、強いもの。
私も強い?
いずれは誰よりも強くなる。
そうなんだ。
ねぇ、もう一つ気になることがあるの。
何?
私の中にある、その気持ちはなんだと思う?
分からない。
いいえ、分かるはず。
分からないよ。
分かっているんでしょう?
否定しないで。
否定されたくないの?
違う、そういうわけじゃない。
他人のことは否定するのに?
違うってば。
じゃあ何で言わないの?
言いたくないだけ。
じゃあ、本当は分かっているんだ。
...うん。
言ってごらん。
まだ、言う必要ないから。
そう、その通り、でも私は分かってる。
なんで?
『リーズン』。
どういう意味?
英語で『理性』という意味。
『理性』がどうかしたの?
私の『理性』が分かると言っているから。
『理性』?
そう、『理性』。
頭じゃないの?
脳や体では到底分からない次元のことなんだよ。
他の人には分かるの?
分からない。
じゃあ、私はなんで分かるの?
『理性』だけが分かることができるから。
なんで『理性』は分かるの?
『理性』が一番嫌いなものだから。
嫌いなのに、知っているの?
私だって、嫌いな人のことをよく知ろうとするでしょ?
うん。
それと同じで、『理性』も嫌いなものから目を背けられない。
そっか。
それに『理性』が忘れてしまったら、私は本当に死んでしまう。
そうなの?
うん。
ねぇ、それってなんなの?
それは、私が一番解っている。
分からない。
分かるはず。
なんでそう言い切れるの?
私は、私だから。
え?
私は志那だから。
そうだね。
私が解っていることは、私にも分かる。
確かに。
だから、その心の中で抑えられなくなっている感情が何なのか分かる。
うん。
ほら、言ってごらん。
うん。
さぁ、声に出して。
うん。
解っていることを全て吐き出しなさい。
うん。
否定されたくないなら、先に私が否定しなさい。
うん。
生まれたころから抱くその心中を放ちなさい。
うん。
その気持ちは、何なの?
これは、『本能/インスティンクト』。
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