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虚無レアを食った話

先週だか先々週くらいの話だ。

会社帰り、駅の近くの道を歩いていた。
日が伸びて、夕方でもまあまあ気温が上がってきたので、夏の到来を予感させて正直嫌だなあとか思っていた。
一日八時間のパソコン仕事でしょぼしょぼしていた目に飛び込んできたのはエクレアを食らいながら歩く中年男性だった。

彼は道の向こうから歩いてきた。近くにコンビニがあるから、そこから出てきたばかりなのかもしれない。ビジネス用のあの機能的だが格好悪い鞄を肩にかけて、もう片方の手で裸のエクレアをつかんで食らいついていた。歩きながらである。
それなりに人通りのある駅前で、おそらく自分と同じ会社帰りであろうくたびれた中年男性が、すぐそこで買ったと思しきエクレアを片手に歩いている。

とはいっても、おじさんがスイーツ頬張ってて可愛い、みたいな感じはかけらもない。仕事上がりに缶ビール片手にご機嫌になっている、おじさんにありがちなあの表情でもない。

あれは虚無だ。
何の感情もなく、食らいつくというほどの勢いもなく、歩くのと同じただの動作といった感じで、淡々とエクレアを食っている。

あのサイズではおそらく、三口くらいで食い終わったはずだ。一瞬すれ違っただけなので、私はそれを見届けていない。食い終わった彼が、やはり何事もなかったかのように家路を行くのか、はたまたスイーツを食った直後に居酒屋に入ったのか、それはまったく想像もつかない。

そのときは、すれ違ってしばらくしてから「エクレア早く食いたかったんだろうけど、特に嬉しそうでもなかったな……」と、見たままのことを考えただけだった。そのあと普通に帰宅して夕飯作って食った。


そして翌日、である。
私はいつものように出勤し、席についてパソコンをいじっていた。もしかしたら液晶を見つめながら意識が飛んでいたかもしれない。
気づいたらぼんやりした意識の中に、さらにぼんやりと漂う欲求があった。

口の中にクリームを入れたい。
生クリームかカスタードクリームを食べたい。

普段あまり欲求のない私の体が考えていたことを言語化すると、こうなる。
いやしかし、勤務中である。
そしてまだ昼前、午前十時過ぎ。いつもなら、さてそろそろ本格的に仕事を始めるか、という時間だ。
この時間にクリームを食べたいなどと思ったことは、これまでに一度もない。
思い出したのは、前日夕方に見かけた虚無顔でエクレアを食らう中年男性。

なるほどあれの所為か。

「所為」とは言うがあの男性に罪はない。私が勝手に覚えていただけだ。
三十分くらい椅子に座っていた。だいたいの欲求は放置していれば消える。だからこれもそのうち霧散すると思っていたが、意外にしぶとく残った。はっきりとした形を取っておらず、意識の下の方で靄のように漂っていたからかえって生き残りやすかったのだろう。

まあ。
コンビニまで徒歩三分である。
それに会社の買い物もあった。渡りに船だった。

そういうわけで首尾よくエクレアを買って職場に戻った。たぶん十五分も経っていない。

ところで職場でいきなりエクレアを食べ始めたら普通は目立つ。
だが幸いなことに、うちの職場は全員の机がパーテーションで仕切られている。全員が座っていれば、互いの姿は目に入らない。何をしているかもわからない。
買ってきた会社の備品を所定の位置に収めて、私は自分の席に戻った。
他の社員が立ち上がる気配はない。
買ってきたコンビニのエクレアを開けて一口食べた。

口の中がチョコクリームでいっぱいになった。

いや、お前じゃねえよ。

生クリームかカスタードを思い浮かべていたのに、いざ食べたらチョコクリームだった。
というか買うときに、商品名はまったく見ていなかった。とりあえず透明な袋の中にエクレアらしき形のものが入っていたから、あんまり気にしないで買ってしまったのだ。

なんでチョコだよ。
適当にエクレアを買って、その中身がチョコである確率ってそう高くないだろうに。

釈然としない思いでエクレアを食った。小さめだったので三口で食い終わった。

一応は望んだものを得られたのに、食べられて嬉しいとかそういう感覚にはならなかった。
ただなすべきことをなしたという感じだった。
だから表情も別に変わらなかった。食べたいものを食べた喜びも、思ってたのと違ったというがっかり感もない。いつもの仏頂面である。

自分でも理由はわからないが、とりあえず欲求は鎮まった。「食べたい」という意識内に生じたマイナスを埋めることはできた。

エクレアは済ませるべきタスクだった。

おそらく、帰り道に見かけたあの中年男性にとってもそうだったのだろう。ただ必要だからそれをやる、というような、それだけのものだ。

でも逆に言えばそれは必要だったわけだ。
日常を滞りなく進めるための穴埋め作業。虚無を埋めるために、たまたまそのときはエクレアが必要だった。
いずれまた虚無レアのお世話になるときが来るのかもしれない。

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