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「邦楽を考える」

投稿者 - 箕面邦楽研究会 Y.Namikawa (2000.7.4旧HPより)

 邦楽(Traditional Music)とひとくちに言ってもいろいろな種類がある。人形浄瑠璃の「義太夫」、三味線音楽の「常磐津」「新内」、歌舞伎音楽からできた「清元」、「長唄」や「地歌箏曲」、はては「浪花節」まで。それぞれ音楽ができてきた歴史的経過がある。

 その中で私たちがやっているのは、邦楽のひとつ、おもに「地歌箏曲(じうたそうきょく)」と言われてきたものが発展した。
 地歌は江戸時代以来、盲人音楽家を中心に、主に上方(関西)で行われた三味線音楽。地歌とはその土地の歌の意味。座敷きや家庭で三味線を弾きながら歌う。地味であるが、粋で三味線は細やかな技工に富む。生田流箏曲と結びついて発展したらしい。それに初めは胡弓(のちに尺八に変わる)のパートが加わって、三曲合奏と呼ばれる形態が生じた。

 ここでおもしろいな-と思うのは、三味線音楽=弾き語りから発展し、流行してきたというところ。私の勝手な想像では現代に置換えれば、さしずめギターの弾き語りのようなものではなかったか。しかし江戸時代においては身分階級が歴然としていたから、貴族、武家町民の順に、雅楽、猿楽、箏曲、尺八、三味線、浄瑠璃と身分によって江戸初期中期ではやれる楽器が決まっていた。武家のお姫様は箏は弾けても三味線はだめだった。それが江戸後期に入るにつれて、三味線音楽を箏に移し替えたり、武家でも三味線を教わったり尺八も普化僧の独占でなく、町民などまで広まっていったという。

 まあ音楽やから、おもしろいものは広まるのだ。クラシックのお膝元のイギリスでだって「ビートルズ」がフォークソングの第1人者になったように(?)。
 さて、地歌箏曲の方はといえば、明治に入って、またまた今度は洋楽の影響をうける。宮城道雄「春の海」といえば学校の音楽授業でも以前はこれだけは習ったように思うが。唄の入らない、純器楽曲的な曲がみられるようになる。
 その後、幾多の有名作曲家が輩出し、まさに様々な曲が作られているわけである。
しかし、しかし、江戸後期に繁栄を見たほどの「邦楽」の興隆は今はない。「歌は世につれ世に歌はつれ」とか昔、紅白歌合戦のアナウンサーが言ったとか。音楽も時代とともに変遷していってあたりまえとは思う。が、邦楽に片足つっこんでいる者として、「邦楽」の響きが「洋楽」とは違って、何か心に響くこともあるように思うのは、ひいき目なのだろうか。

この頃、能、狂言が見直されてきたりとも聞く(一時の流行かも知れないが)。邦楽は、さてどうなんだろう?邦楽の持つ良さって、何なのだろう。どうしたら、邦楽の良さを、知ってもらえるのだろう?そこのところの考察は次回で。 

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