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「物隙目」...5 赤口

「何にもならないことをするな」
父の言葉が頭にこびりついている。父の言いつけの一つだ。私と弟は、常に何か意味のあることを求められて、でもそのおかげでそれなりに勉強できた。高校の美術室、向かって黒板の右側、ポリバケツの中に作品を捨てた。不要になったのでビリビリに破いて捨てた。未練は少ない方がいい。模試の成績は可もなく不可もなし。父親のため息を聞きたくなくて部屋に帰った。デッサンの調子はイマイチで、取り返しのつかないところまで来てから構図をミスしたことに気付いた。デッサンは練習で、時間芸術ではない。でももう引き返せない。引き返せなくなったら、後の時間でできることをやるだけだ。頭でそう理解しつつ、訳のわからない不調が表に出てきて、くだらないことで脳内が埋め尽くされる。
 案を出してきて、と言われたから、それなりに考えて、美術部だし瀬川さんお願いねって言われて、ちゃんと私は描いたのに。次の委員会では、こんなの考えてみたんだけど、と後出しジャンケンみたいに言われて、満場一致そっちの方がいいかもね、なんて、何それ、私、要らなかったじゃん。ごめんねって、本心かわからないことを言われて、笑って誤魔化した。愛想笑いも下手くその癖して何やってんだか、と、自分を鼻で笑ってやった。不要になった。何の意味もなかった。愛着が消えた。その頃、私はずっと頭蓋骨や牛骨ばかりを描いていた。デッサンをしている時は目の前のことだけを考えれば良かったから、デッサンに割く時間が多かった。狂ったように骨ばかりを描いていて、美大に行くわけでもないのに、逃げるように部活に行っていたのが何も意味がないことのように思えて、でもやめられなかった。
「先週の方が良かったね」
講評で顧問の先生が困ったように話す。悪くはないんだけど、と付け足して。綾子ならきっと余計な事を言わない。みんながみんなデッサンをしているわけではなく、油絵を描いている子もいたし、デジタル絵を描いている子もいた。学校にはモチーフがたくさんあるから、趣味の絵は家で描いていた。興味があって、美術準備室の顧問の本を借りたりした。石膏像も何体かあったから、それについて調べることもあった。美術史は面白くて、数学や物理より好きだった。人生観や死生観の表現は興味深くて、成績表の中で公民の倫理は特別評定が良かった。
「陽子、また骸骨を描いているのか」
夜、控えめに部屋の扉がノックされる。父だった。
「まぁ、うん」
「そんなものばかり描いて何になる」
「え、でも、学校ではちゃんとデッサンもやってるし、模試の公民も良かったし」
膝の上に水張りパネルを置いて、勉強机に斜めに立てかけて絵を描いていた。机上には色を作った小皿を並べて、筆洗いで色を落としてから、扉の方を向く。
「倫理や文化的教養を身につけるのは結構だが、変な絵ばかり描かないようにな」
一方的に注意して、こちらが何かを言う前に扉を閉めて出て行った。視界の端が歪んだ。
 絵を描くときに余計なことばかり考えるようになった。私が骸骨を表現することに意味なんかない。美大に行くわけでもない。将来絵の仕事をするわけでもない。吹奏楽部やバレー部の子が冬の大会を目指すみたいに、私も絵を描き続けたいだけだった。夏休みに参加したデッサンコンクールは下から数えた方が早かった。無駄なことに時間を割いている。勉強の息抜きに聞く音楽も、CDを買った時は大好きでたまらなかったのに、大好きなだけで何の役にも立たない。腹が膨れるわけでも、私の心が満たされるわけでもない。前向きで元気な曲がお昼の放送で流れて、流行り物を好きになれないのが悪いことのように思えてくる。明るくて元気な曲を聞くと視界が歪んで、涙が出てくる。泣くのは疲れるから嫌いだ。微塵も頑張ろうという気になれない。イヤホンで曲を聴きながら登下校をするのに、いつどんな時でも大好きでいられない。誠実にいつでも大好きだと笑えて、それを糧に努力できる人間が羨ましかった。パネルの画面から離れて客観的に自分のデッサンを観察して、数ミリの違和感を感じ取って、客観性が身に付いたな、と第三者の視点で脳が思考する。でも、世の中に絵の上手い人なんかいっぱいいて、これは特別なことじゃない。お父さんの言うように、これは何にもならないことなのかもしれない。こんなことより先に優先するべきことが本当はあって、例えば週末課題とか、前回の範囲の復習とか、私の人生では私の心が大事なのに、人生の最優先事項はやるべきことを淡々とこなして生きることなんだ。違う。今考えるのはこの数ミリのズレを直すことで、午後には細部の凹凸にアタリをつけたい。だから今集中しなくちゃいけなくて。考えろ、とか、集中しろ、という言葉を自分に言い聞かせている時は、その実その言葉で脳内を埋め尽くしてしまって何も考えていない状態になって、こういうところが無駄なんだ。逃げるように絵を描くことに没頭するのも誠実じゃない気がして、不純だらけで嫌になる。私の作品は何にもならない。音楽も絵画も、昔はもっと感動した気がするのにそれが熱量に昇華しない。無駄な作業ばかり増えていく。出来上がったものを、これは何だろうと自問して、本当は絵を描くのなんか好きじゃないのかもしれないと思って、何も意味のない絵が誰かの為にも自分の為にもならなくて、虚無ばかり創作してしまう。好きなイラストレーターの画集を書店で見つけて、これを買って何になるんだろうと思って、私は今まで虚無ばかりを買ってきたのかもしれない。思考を一度落ち着かせる為に鉛筆を削る。焦って、七対三に削ってきた芯がバキ、と折れる。無駄にした。モチーフの花は枯れるけど、モチーフとして価値があって、人間は死んでも何にもならないし、消費し続けるだけ、生きている方が無意味だ。そんなのとっくの昔に気付いているのに、三十度の鋭いカッターの刃が肌を掠めそうになっただけで死ぬのが怖くなる。
 お昼休憩になって、数ミリのズレを直せたけど、ある程度の陰影を描けただけになった。脳が締め付けられたみたいに痛くて、鞄の外のポケットからチョコを取り出して食べる。このデッサンはもう駄目だな。世の中には絶対が無いなんて言うけど、確信できる絶対無理を実感する瞬間がたまにある。それは今日だった。コンビニのパンを取り出して、スマホを開いた。同時に、通知が一件入る。
 
「海に行こうよ」
今日、土曜日の正午、綾子は突然連絡を寄越してきた。本当は午後も部活があったけど、追い討ちをかけるように「今の時期なら人いないし、いいでしょ? 岐阜駅集合ね」とこちらの了承も得ずに約束されてしまったし、今の精神状態でここに残ってもいいデッサンなんか出来ないから、もうサボることにした。綾子に会うのは久しぶりだった。夏休みに一回だけ遊んで、その時彼氏が出来たことを知った。中学の頃からいずれできるだろうと思っていたので、あまり驚きはなかった。高校に入ってから会う頻度は減って、中学生の頃みたいに学校がある日ではなく、休日や長期休暇にしか顔を合わせたりしなかった。
「おはよう」
名鉄かJRか聞くの忘れたな、と思いながら、学校に近いJR構内に入ると、バスロータリーの方へ抜けられる出入り口のガラス扉に、もたれて待っていた。土曜日なのに、綾子は制服だった。何ともなしに綾子は私の手を引いて外に向かう。
「ねぇ、どこの海に行くの。岐阜に海なんかないでしょ」
「常滑!」
「常滑ぇ?」
 
 名鉄線、中部国際空港行き、と電光掲示板が示していて、私はそれに乗ったことがなかった。
「思ったより暑いね」
マフラーを外しながら、綾子は二人がけの席、窓際に私を促した。常滑は愛知県らしい。小学生の頃に家族で行った海がどこの海だったかは覚えてないし、中学生の頃に母と行ったのは確か名古屋港だ。常滑には行ったことがない。窓の外は知らない風景だった。
「自分で言うのも何だけどさ、よく来たよね、陽子」
「……まぁ」
死にたくなったら海に行けって聞いたことあるし。と言うのを飲み込んで、
「綾子から突然連絡くるの、久しぶりだったから」
今日の綾子はあまり笑わない。学校か、彼氏か……家で何かあったのだろうか。でもそれは私も同じだから、話題に出すのは辞めた。中学の時から薄々思っていたが、綾子はあまり家に居たくないらしい。でも、今日の私もそうだった。
 
「着いた」
綾子が嬉しそうに笑う。名古屋の中心地を通過し、空港を目前にして電車は目的地に着いた。初めて降り立つ常滑は、無機質な田舎だった。遠くの方に大型ショッピングモールが見えて、有名な業務スーパーとだだっ広い駐車場があった。海が近いからか、今日が寒いからか、風が酷く強かった。野晒しの彼女の黒髪はこんな時でも綺麗だった。クローゼットの奥で眠っていたコートを引っ張り出してきてよかった。このコートも、今季最初に潮風を浴びるとは思わなかっただろう。十一月だからか、通行人はほとんどおらず、車が走っているだけだった。ゴゴゴゴ、と空が割れる音が響いて、全身の綺麗なフォルムが肉眼で確認できるほど近くの空を飛行機が飛んでいく。
「知ってる? 海ってね、一番白骨化が進むスピードが速いんだよ」
白い砂浜を見ていると、骸骨のことを思い出す。連鎖的にデッサンのことも思い出してしまって、それが顔に出ていたらしい。ベンチに座って、学校で食べかけたコンビニのメロンパンを綾子と半分んこする。
「ね、夏にさ、牛骨とか骸骨の絵見せてくれたじゃん? 陽子はなんで骨が好きなの」
表面がボロボロと落ちるので、綾子は少しずつ千切って食べ進めている。パン屑が地面に落ちるけど、それを狙う虫は一匹もいない。
「……わかんない。形が綺麗だな、と思う。あと、骨に肉がついてるから美人とか不細工とか評価し合うのも面倒だし……骸骨だったら余計なこと考えなくても済みそう」
「それはある。私生まれ変わったら貝とかになりたいもん。人間って面倒」
「貝の世界も大変かもしれないよ」
「うーん、でもとりあえず人間にはなりたくないかなぁ」
「……わかる」
人間の身体は非効率的だし、最近知ったけど生物の中で欠陥が多いらしい。風が冷たくて、タイツ一枚の感覚もない。吐く息は薄っすらと白くて、もう秋も終わるのだろう。半分だけのパンを食べ終わって、袋をぐしゃぐしゃに丸める。
「綾子はさ」
未だ小さな口で食べ進めている綾子がこちらを向いた。
「本物の骸骨、見たことある?」
綾子はパンを食べるのをやめた。頭を揺らして、どうだったかな、と呟く。
「小さい頃に一回くらいは? あると思うよ」
あ、と、子どもの一口ぐらいの大きさでパンが落ちる。
「ひいおばあちゃんの、御骨拾いしたことあるんだけど」
膝の隙間、スカートの凹みに落ちたパンを摘んで綾子は口に含む。
「健康的で、病気なんか全然しなくて、老衰だったんだけど。火葬で骨がほとんど残らない人って結構いるみたいで。でも、ひいおばあちゃんの骨はしっかり残ってて」
食べ終わった綾子は少し前屈みになって、手についたパン屑を払う。
「綺麗ですねって、火葬場の人が言ったの。…………きっと、意味は少し違うんだろうけど、私も、綺麗だなって思って」
ゴゴゴゴ、とまた空が割れる音が響いて、今度は空港に飛行機が降下していく。ここに来てから三十分も経っていないのに脚は棒みたいで、冷たいという感覚もない。パンを食べ終わった指もきっと、もうすぐ感覚が無くなる。空の割れる音が止んだ。
「ね、変だと思う? 骸骨ばっかり描き続けるの」
動かせばきっとまた冷たさを感じる。だったらこのまま動かない方がいい。
「きっと私は美大に行かないし、絵を仕事にもしない。今私が、宗教的なものも西欧の死生観を表す必要もない。理由がない。私が好きなだけなんだよ」
背もたれや座面の冷たさも消えた。消えたのか慣れたのかは知らない。私と同じ方を向いていた綾子は、上半身を捻って、じっと砂浜を眺め続ける私の顔を覗き込んだ。膝の上で動かないままの私の右手に綾子が触れる。少しだけ冷たい。
「ね、せっかく来たならさ」
綾子が立ち上がる。グン、と私の腕が伸びる。同時に、私の顔は自然と前を向いて、綾子と目が合う。
「ちょっとだけ海触ってみようよ」
「は」
口が開いて、冷たい空気が口に入り込む。ね、と綾子は私の腕を引っ張って、私の身体は綾子の後ろを付いて行く。ベンチから離れた身体は一瞬冷たい感覚を取り戻した。
「ちょっと!」
情けない声をあげる私に、綾子は「いいから」と砂浜をズカズカ歩いて行く。陸に近いほど細かな砂が盛り上がっていて、足が沈む度に踏み出すのが遅れる。同じローファーなのに綾子は器用に歩いていて、転ぶのが怖くて綾子の左手を強く握る。骨張っていて薄い掌だ。ゴオ、と風が一瞬強く吹いて、スカートの裾が膝頭を掠める。冷えた裾は、タイツを履いていても刺すような冷たさを感じた。ぱき、と貝殻を踏む音が聞こえる。ビーズクッションみたいに足が沈まなくなった頃、流木を踏ん付けたみたいで足に硬い衝撃が走る。下ばかり見て、綾子と繋いだ右手が汗ばむ。視界の上の方で砂が濡れていて、私達はそのギリギリで立ち止まった。波は大きく動かず、寄っては引いてを繰り返している。想像していたよりも綺麗で、太陽を反射する水面は眩しかった。綾子は私と手を繋いだまましゃがんで、寄ってきた波に手を伸ばした。お互いに倒れないように指にグッと力を込める。第二関節ぐらいまで浸かって、でもすぐに波は引いていく。
「思ったほど冷たくないね」
綾子は残念そうだった。上からでは綾子の表情はわからない。立ち上がって、スカートの裾に着いた砂を払う。
「私ね、死ぬなら海がいいの」
寄ってくる波が、靴に触れるか触れないかのギリギリの距離で、海を背にして綾子は私と向き合う。「怖くないよ、ほら」と綾子は少しずつ後退していく。右手は繋いだままで、この手を離してはいけないと直感した。
「中学の時、一緒に死んでくれるって言ったよね」
綾子の背後、水面の光が眩しくて、思わずギュッと瞼を閉じる。すぐに目を開ける。紫色の光が視界をチラついて、綾子の顔が上手く見えない。視界が歪んで行く。思わず光から目を逸らして下を向く。寄る波が綾子のローファーを避けて、私の靴の爪先を濡らす。
「ねぇ、私達はおかしくないよ。芸術が希望や救いだけを見てきたなら、きっとこんなに好きにならなかったよ」
ふ、と顔をあげて綾子の顔が映る。目の奥だけが熱くて、何か暖かいものが顎に伝っていく。綾子が少しずつ海に侵食されていく度に、私もそちらに向かってしまう。少し沈んだ砂に靴が引っかかって、私の靴が脱げた。止まれずに、波に右足を突っ込む。冷気で壊死した足が暖かい。瞼を閉じてもいないのに涙が止まらない。
「わた、し」
喉で音がつっかえる。
「も、いつか、その時がきたら、」
波が引くと、足首から下だけが酷く冷たい。左足はまだ安全地帯から抜け出せない。綾子の顔を見ようとして、紫の光だけが蓄積されていく。
「……出来ないでしょ、腰抜けだもんね」
綾子が笑った。紫の光のせいで綾子の顔は上手く見えない。固定されていた左足がブレる。前に倒れそうになるのを、綾子が私の左腕を掴んでくれたことで耐えた。波が寄る。綾子の足はとうに海に浸かっていて、私の左足と、脱げた右足の靴だけがまだ生きている。
「ね、死の舞踏ってわかるでしょ。待っててもね、骸骨は誰も迎えに来てくれないの。……私、ずっと死にたいの。だからさ、いつかその時が来たら、陽子のことは私が殺してあげる」
ずっと繋がれたままだった右手が解かれる。綾子は左の小指を私の目の前に掲げる。
「ね、お願い。約束、して」
綾子が泣きながら笑う。光にも目が慣れてきた。綾子から目を逸らさずに、私も綾子と繋いだままだった左手を解く。
「……いいよ」
 
指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます、指切った。
 
 
 岐阜に呼び出された。つい数日前も帰ったというのに、だ。夏休み中一度も実家に顔を出さないのはどうなんだ、と、昨夜父から連絡があった。数日前に来ていた弟からの連絡は父からの伝言だったらしい。父とはあまり連絡を取り合わないので、いつも電話かメールのどちらかだった。帰る必要性を感じなかったけど、無視するともっと面倒なことになると思って、ちゃんと帰ってきた。岐阜羽島まで新幹線で一時間程度、決して安くはない。でも、私の隣に誰かが座るのは耐えられなくて、綾子の分までチケットを買った。夏休みが過ぎ去った微妙なこの季節の車内はガラガラだった。一度くらい両親の顔を見に行ったら、と、人のことも言えない癖に誘うと、意外にも綾子はすんなりと了承した。
 私の家まで一緒に行って、じゃあね、と綾子は自分の家に帰っていった。大学がもうすぐ始まるから一泊だけなら、と条件を付けた。昼過ぎ、家にいたのは母と弟だけで、父は仕事だった。夕飯だけは家族全員で食べれるね、と母が嬉しそうに笑う。家族が一人増えるだけで家事はきっと面倒だろうに、私が帰ってくるからと少し食材を奮発したらしい。
「これ」
と、自室に戻る途中で弟に大きな紙袋を渡される。レディースのブランドだった。
「何、随分重そうだけど。プレゼント?」
「ちげーよ。……園美さんから」
押し付けるように渡された袋の中身は古本ばかりだった。見覚えがあり過ぎる。昔、綾子から借りたものばかりだった。
「どうしたの、これ」
「園美さんところのお母さんだよ。……陽子、一番仲良かったろ。形見っていうか、捨てるの勿体無いからって、うちに持ってきたんだよ」
用事はそれだけ、と言ったように弟は自室に戻っていく。少し蒸し暑い廊下に冷気が流れてきた。
「ふぅん。じゃあ、綾子に聞いてみるよ」
「は?」
「あ、いや」
馬鹿か。綾子は死んだのに。綾子が死んでから一週間は経とうとしているのに。弟は訝しげな顔を私に向ける。
「なんでもない。これ、ありがとう」
何か言葉を言われる前に、私は自室に逃げ込んだ。
 
 夜、父が帰ってきたと同時に夕飯になった。最近はずっと真面にご飯を食べていなかった。生理も終わりかけの今、母のご飯は世界で一番美味しい。最後の晩餐みたいだ。隣が弟で、向かいに母、対角線に父が座っている。母は話すのが好きで、私と弟がそれに応える。父は黙々と食べ続けていて、時々口を挟む。私の家はいつもこうだった。
「そういえば、礼服はちゃんとクリーニングに出すのよ」
「あぁ、うん」
もう使わないけど。綾子に絡んだ話が話題に出ると、隣から視線を感じた。さっきの言葉を気にしているのだろう。
「陽子」
初めて父から口を開いた。黙々と食べ続けていた父は一番に食べ終わっていた。
「また骸骨の絵を描いているのか」
「……なんで?」
ご飯を食べる手が止まる。ちょっとお父さん、と咎める母の声がする。
「曽祖母が亡くなった時、お前はそういう絵を描いていただろう。人が死んだら作品を作るなんて、不謹慎にも程があるとわからないのか」
空気が死んだ。弟は無言を貫いていて、不自然にならないように食べるペースを早めたりしない。私も、何事も無いようにまた食べ進める。
「故人を悼む行為として不適切だと言ってるんだ」
眼鏡の奥から、父が軽蔑の眼差しを向ける。
「骸骨は描いてない。そもそも、ひいおばあちゃんの時だって、そういうつもりで描いてたわけじゃない。描きたかったから描いただけ。関係ない」
矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。早くこの場から去るために、食べるペースを早める。
「意味のない絵なんか描いて何になる。何にもならないだろう。お前は馬鹿じゃないからわかるはずだ」
創作のネタにはするな、でも何にもならない絵も描くなと、そう言いたいんだろう。父の言うことは正しい。誠実でいられないのは相手に対して失礼に当たる。理解している。
「もう、絵を描くのはやめるように。そろそろ就活も始まるだろう」
「は?」
後少しで食べ終わるのに、私の手は止まる。
「何それ、なんでそういう話になるの?」
「間違ったことは言っていないだろう。何にもならないことはするなと、散々言ってきたはずだぞ」
至極当然と言った感じの態度に無性に腹が立った。
「なんでよ。私だって間違ったことはしてないじゃん。中学や高校の時だって、絵を描いてても志望校に入れた。単位だって一度も落としてない。サークルの人達だってみんな楽しそうに好きなことをしてる。なんで私だけそんなふうに言われなくちゃいけないの? 絵を描くのが無駄なことなら、どうして部活やサークルに入るのを許してくれたの?」
食後に熱いお茶を啜っていた父は、私の言葉を途中で遮らなかった。弟と母の視線が刺さる。
「お前は大勢の人と関わるのに向いていない。一人でもできる部活に入るのが適切だと思ったからだ。……でも、こんなことになるなら絵なんて描かせなければ良かったな」
「は」
生理も終わりがけなのに腹がキリキリと痛む。部屋の温度が下がった気がした。私の後ろにはきっと、綾子がいる。呆然としている私を見て、父は少し罰が悪そうな顔をする。
「絵を仕事にしようがしまいが好きにすればいい。……コンクールに出たのも一度だけで、外の世界に触れようとしていないだろう。死生観に触れると思考が暗くなる。お前は影響を受けやすい人間だからな。俺は陽子のために」
「私は」
人の話は最後まで聞く、という言いつけを、父の前で初めて破った。
「私が絵を描いていても、父さんの言う通りちゃんと勉強もしたでしょ。私が夜の方が好きでも、朝ちゃんと起きて学校に行ったでしょ。朝型の父さんを否定したことなんかなかったでしょ。一度も間違ったことなんかない。父さんの懸念していることが頭を過っても、綾子が死んでも、私が置いていかれても、ただの一度も間違ったことなんかない。……芸術が好きだよ。でも、だから、不謹慎で危ないことばかり考えてるわけじゃない。考えるのが好きなだけ、一度も間違ったことない。だからもう、放っておいて」
最後の晩餐を喉に押し流す。ごちそうさま、とだけ言って、リビングを飛び出した。廊下には綾子が来ていて、顔を見たら涙が勝手に流れてきた。父にも母にも追いかけて来られるのが嫌で、すぐに自室に走って逃げ込んで後ろ手に鍵をかける。なんで泣いてるのかわからない。むしゃくしゃして、部屋の片隅に置いたままの、中学の下手くそなデッサンを引っ張り出して、ビリビリに破こうとする。鉛筆や木炭の粉が指についても全部どうでも良かった。この後部屋を掃除するのは私で、それは絶対に面倒なことで、それを母に見られるのも面倒で、きっと理由を聞かれるんだ。そう思ったら少しだけ亀裂が入っただけのデッサンを破る手が止まって、泣くだけになった。立っているのも面倒で、破くのをやめたけどこんなデッサン何にもならなかったのに、いつまでも取っていて馬鹿だな、なんて思って。こんな時でも、頭の中の第三者が冷静に物事を俯瞰していて、感情の爆発を許してくれない。ドアを背にしてずるずると床に座り込んで、泣いているからか、怒っているからか、頭が痛いからか、胸のあたりがずっと痛くて、抑えてうずくまる。「う、あ」と、言葉にもならない単語だけが喉から出てくる。痛みを緩和させてくれるわけでもない。この言葉にも意味がない。虚無ばかり作って、でも私にはその虚無達を捨てることもできない。ただただずっと、精神がすり減っていくのを待つだけの人生だった。そんなことをしているのも、意味がない。
「どうせ、死なないと思ってるんだろうね」
頭上から綾子の声がする。ドアをすり抜けてきたのだろう。
「だからあんな酷いことが言えるんだ」
ふっと顔を上げる。月明かりが部屋に差し込んでいて、逆光になっている綾子の顔はよく見えない。綾子はセーラー服を着ていなくて、死んだ時の姿になっていた。
「自分が殺してくれるわけでもないのに、随分酷い人だね」
綾子が屈んで、私に顔を近づける。
「でも、それは陽子も同じだね」
親子だから、と、静かな綾子の声が耳に届く。ああ、やっぱり。はは、と、自分の喉から乾いた笑いが漏れる。
 
「綾子だけが私を地獄に堕としてくれるんだ」
 
天使の輪が光る綾子の背中には、白い羽根が見えた。


6話

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