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「物隙目」...終 友引

「今だから言えることだけど」
昨日、朝一でアパートに帰ってきた私は、綾子に絵のモデルを頼んだ。美しい天使、私の親友、園美綾子。一度も彼女のことを描いたことがなかったな、と、父の言葉を思い出した。私が描くことに意味なんかない。死んだ彼女を描くことが、どんな風に取られるかはもうどうでもよかった。綾子のことを真に理解できる人間はこの世にはいないし、無論私も、何一つ理解していなかった。一昨日の夜、死んだ時の姿で現れた綾子は、真白のロングワンピースを着ていて、腕には煙草の火傷跡があった。こんなのなんでもないよ、と、スカートの裾をあげて綾子は微笑んだ。脚にも同様の傷があり、私は、その時初めて、綾子の境遇を知った。親友が聞いて呆れる。
余っているパネルを探して、ちゃぶ台に立てかける。綾子には窓際に座ってもらった。涙が出そうになるのを、自分で頬を引っ叩いて、色を作る。
「陽子、なんで泣かないの」
「泣かないよ」
海に行ったあの日の別れ際、いなくなるのが怖くて、私は彼女に死なないよう釘を刺した。
『死ぬなら、本当に死ねなきゃ意味がないし、もし死んでも化けて出るなんて馬鹿な真似しないでよ』と。綾子は馬鹿じゃなかったし、もしも本当だったら、と思いつつも、私も心のどこかで死んだりしないと思ってた。昨日の綾子が正しい。否、いつだって綾子が正しかった。
「だから、どうして。今更気にしなくていいよ。誰にもバレないようにしてたんだから。陽子が知らなくても、私に何か思う必要なんかないよ」
ね、と、綾子は未だ笑っている。美しくて、でもその笑顔が脆くて、私は。
「なんで笑うの。泣きたいのは綾子でしょ。泣きたかったのは綾子でしょ」
一瞬、綾子の顔が引き攣る。彼女の笑顔は板についていて、私ではそれを引き剥がすことが出来ない。堪えても、頬を引っ叩いても、私の目から涙が溢れる。
「ごめん、綾子、見つけてあげられなくて」
手の甲で瞼を雑に拭いながら、私は鉛筆で下書きをする。綾子は、私に言われた通り窓際にじっと座ったまま、ポロポロと泣き始めた。その姿が美しく見えて、やっぱり、私は父さんの言う通りの人間なんだなと思えた。最低だった。ごめん、と、また私の口が動く。
「あんまり、ごめんは、聞きたくない、かな」
綾子はぽつりと零した。ごめん、と謝りそうになって、それを飲み込む。
「うん。ありがとう。綾子、迎えに来てくれて」
「ね、陽子。私、誰でも良かったわけじゃないよ。お母さんでも、お父さんでも、他の友達の誰でもダメだった。陽子じゃなきゃダメだった。ね、陽子もそう? 迎えに来てくれるなら……ねぇ、私じゃなくても、良かった?」
「違う」
パネルを抱えて、ちゃぶ台に身を乗り出して、私は綾子の言葉を否定する。
「私も綾子じゃないとダメだよ。綾子だけが、私を助けてくれたんだよ。……救われてばかりで、何にもしてあげられなかった。聞きたくないだろうけど、もう遅いけど、ごめん」
そうだ。もう遅い。もう綾子は死んでて、私がこれ以上綾子にしてあげられることは、ひとつしかない。
「そう、そっかぁ。ね、陽子」
涙を拭って、綾子は私に笑いかける。
 
 
「あの時死ななくてよかったね」
テレビで自殺未遂をした人がよく言葉にしているのを聞く。あの時本当に死ななくてよかったかどうかわからないし、あの時、私達は本当に死のうとしていたのかどうかもわからなない。
「本当にそうかな」
綾子がテレビの中の人と同じことを言うとは思わなかった。電車の中、窓際の席に私が座って、隣に綾子が座っている。あの時と同じ、人の少ない車内で、私達は話している。
「そうだよ」
綾子が隣で笑う。
「あの時、本当に死ねたかどうかわからないし、二人とも死ねなかったらきっと家から出してもらえなかったし、片方だけ死んでたらきっと精神科に行ってたよ」
「……そうかもね。ね、綾子」
「なぁに」
遠足に行く前の子どもみたいに、綾子が笑っている。
「……やっぱ、なんでもない」
「えー? なによ。言いたいことは今のうちに言っておきなさいよ」
ほら、言いな、と、隣から圧をかけてくる。美人の真顔は怖いっていうの、結構間違ってないかもな。
「……もう笑わなくていいよって言おうと思ったけど、楽しそうだから、やっぱ言うのやめよって思っただけ」
なんとなく気恥ずかしくて、窓の外を見る。あの時の景色とさして変わらない。
「なんでそう思ったの?」
小さな声で、不安そうに綾子が呟く。
「だって、いつも笑ってたから。……私は綾子が笑ってなくても困らないよ」
窓から視線を戻すと、ふふ、と、綾子は笑った。
「そう……そっかぁ」
へへ、と、綾子が照れ臭そうに笑う。同時に、綾子がポロポロと泣き始めた。綾子の泣き顔はあまり見慣れていない。少しびっくりして、上着の袖を引っ張って、雑に綾子の目元を拭う。
「拭き方下手くそ」
はは、と、泣きながら綾子が笑っている。私たちの周囲に他の客はいなかった。綾子は死んでいて、部屋の温度が下がった時みたいに、そういう運を引き寄せているのかもしれない。一昨日の夜から綾子の光の輪は消えなくて、白い羽根も消えていない。天使みたいだった。
「ね、綾子って、天使か幽霊かどっち?」
キョトン、と表情を崩したかと思うと、うーん、と唸り始めた。今日の綾子はコロコロ表情が変わって、少し生き生きとしている。
「えー、どうなんだろ。最初は幽霊だと思ったけど、昨日陽子が私に天使の輪っかと羽根が見えるって言ってたんだから、天使なんじゃない? 私はわかんないけど」
上半身を左右に捻って、綾子が肩甲骨のあたりを確認している。
「それって、そんな重要なこと?」
「いや……わかんないけど。気にはなるじゃん」
死の舞踏における死の象徴は骸骨で表されることが多い。人間の死の象徴として、死後の姿は最もわかりやすく、伝わりやすい。死の舞踏を始める綾子は、火葬されたにも関わらず、見た目は綾子のままで、どこからどう見ても骸骨ではない。人生の儚さ表すヴァニタスという美術の主題にも、頭蓋骨は多く使われていた。綾子がどんな姿でも構わないし、必ずしも骸骨の姿である必要はきっとない。私達の出した答えは、間違ってないはずだ。
「陽子」
段々と視線が下がって、少しだけ汗をかいていた私は、綾子の声ではっとする。顔を上げると、電車は常滑の駅に到着していた。
 
 天気は快晴、とは言い難く、夏はとうに過ぎ去った気温だった。高い建物の並ばない閑静な街は、相変わらず広い土地を持て余していた。私達はまだ、生身で触れ合っていない。触れると消える、というのをヒントに、私は昨日絵を描いた。ほとんど自己満足で、綾子の為になったかどうかは正直わからない。でも多分、あの絵を見た人は、あの天使のことを綾子だと認識するだろう。どうしても、このまま綾子に連れ去ってもらうだけではいけない気がした。一日しか時間がなかったから、クオリティは全然高くない。それでも綾子が「いいね」と、無邪気に笑ったから、もう私は疑わないことにする。
 ゴゴゴゴ、と空が割れる音がする。飛行機がどこかに飛び立って行く。綾子と、いつかヨーロッパにでも行きたいね、と話していたこともあった。美術の話の延長で、美術館以外にも、海とか、何か綺麗なものを見にいこうね、と、約束したこともあった。私達は死にたかったことを隠し続けて、死にたいのに、次に会う約束をして毎日を生きていた。約束をする度に、あんなに死にたかったのに? と綾子の顔が過ぎって、でも、私の知らないところで綾子は傷ついていて。私の人生、本当に意味なかったな。でも、
「私、綾子のこと好きになって良かったな」
あの時みたいに、足が砂に沈む。私の前を歩かない綾子は隣で立ち止まった。風が強く吹いていて、でも、綾子の耳にはきっと届いている。
「何にもない人生だったけど、綾子がいてくれて良かった」
視界が歪む。潮風が強く吹いていて、歪な音が耳を掠める。綾子の髪は風に遊ばれていて、綾子も泣いていた。
「私」
凛とした綾子の声だけは、私の耳に綺麗に届いた。
「私、あの時死ななくて良かったよ。ずっと、痛いことばっかだったけど、あの時、陽子のこと無理矢理連れて行かなくて良かった。陽子から言葉が聞けて嬉しい。私も」
綾子が真剣な眼差しで私を見つめる。
「陽子のこと好きになれて良かったよ」
「……そっか」
砂を踏みしめる度、風に身体が煽られる度、死に向かう度、靴が脱げそうになる。ちゃんと履いて、砂浜の色が変わっている、海の直前まで綾子と歩いて行く。私達以外に、この空間には誰もいない。空は曇っていて、太陽は見えない。お世辞にも、綺麗な海とは言えなかった。
「ねぇ、陽子。さっきの話だけどさ」
綾子が私の服の左袖を摘む。
「私が幽霊でも天使でも、私が死んでることに変わりはないよ。もう死んだ私は陽子にとっての死の象徴で、これが私達の死の舞踏の形なんだ」
綾子は火葬されて、魂なのか、今私のことを迎えに来ている。私の身体はきっと水葬で、火葬には至らないだろう。不本意ながら、綾子が先に死んだことで、魂の在り方は証明されていて、綾子の骨と私の身体が離れないように心中する必要もない。私達の出した答えは、絵の中に置いてきた。死ぬことばかりを考えて生きてきた人生だった。これが一つの死の形なんだと、最後に一枚だけ、意味のある絵が描けたと思う。
「私達のこれが、友情でも愛情でも恋情でも、どれか一つに当てはまる必要なんかないよ。陽子は、昨日の絵のこと、自己満足だって言ったけど、私は陽子のこと間違ってないと思う。お互いのことを信じながら、いつか死ぬ日を夢見て生きてきた私達に、間違ってるなんて、誰も言えないよ」
「……うん」
綾子に同意を求められる前に、私は返事をした。
「死の舞踏はペストの時代に流行した。今は疫病なんか流行ってない。でも、私達が知らないだけで、毎年、毎日、毎時、きっと人はたくさん死んでいる。死の舞踏は、いつの時代、どんな時であっても行われているんだ」
「うん」
「その中で、私達が出した答えは間違ってなんかないし、おかしくない。人の数だけ死の形があって、それは誰かにとやかく言われるものじゃない」
「うん」
ゴゴゴゴ、と空が割れる音がする。行き先も知らない飛行機が、また一つどこかに飛んでいく。冷たく吹き荒れる風、大きく揺れる波、入水前の私達。世界の終末が訪れているみたいだった。私の腹が鳴る。一昨日実家で食べた母の手料理を最後に、私は何も口にしていない。私の身体は正常に生きている。でも。
「綾子」
幾度となく呼んできた彼女の名前を呟く。
「私を、」
言葉を紡ごうとした瞬間、綾子は私にキスをした。唇が触れるだけのキスだ。唇が離れると、綾子は笑った。私も、頬が上がるのを感じた。綾子が私の手を握る。あの時と同じように、私を海に引き入れて行く。靴が脱げないように、私は綾子に着いていく。靴を置いていくことに意味がない。私はもう二度と帰らない。夢みたいな、魔法みたいだったこの一週間のことは消えないし、私のことを探す必要はどこにもない。
 私達は身体を捨てた。冷たいとか、もう何も感じなくなった。綾子に口付けられた瞬間から全てのものを捨てた。切り離された。私の魂は、心は、天使の綾子が連れ去ってくれた。私達は鳥葬の絵を遺した。それが答えだ。
「ねぇ、陽子」
一昨日、実家の自室で私に言ったことを、綾子はまた嬉しそうに呟いた。
 
「私達、物好きね」

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