Kがいる東京

きょう、東京にはKがいる。黄色の花が咲いたシャツを羽織っている。ただそれだけのことだ。わたしはというと、わざわざ東京から山形へ。Kのいない山形へむかっている。今日、東京にKがいるということは、なんてことない。そんな程度のことなのだ。

わたしの人生を導くひと。彼のことを本文では、Kと呼ぶことにしている。

Kが日本へやってきた日、わたしはいつも通り仏間で寝ていた。ときどき猫が頭のまわりを跳ねて、そのたびにうっすら目をあけて、にゃあと言ったり言わなかったり。
Kが日本にやってきた日、わたしはいつもより少しだけはやく起きて、つめを新しい色に塗った。降ってきそうな青い空のいろ。肌が黒いのが目立つからあまり好きじゃなかったいろを、なんだか選びたかった日だ。
Kが日本にやってきた日、わたしはひとつ隣りの駅まで歩いた。母のサンダルを借りて、カランコロンと夏の音を立てて歩いた。小さいころはよく通ったこの道は大人の歩幅じゃ大したことなかったけど、高い空はいまだって高いところにあるままだ。
Kが日本にやってきた日、わたしはお墓のそばに落ちていたどんぐりを拾った。小さい秋を見つけては隠して、わたしの誕生日、秋分の日までは夏を引き伸ばしている。どんなに日が暮れるのが早くなっても、小さいころの冬の夕方は、大人の夏やすみよりずっと長かった。
Kが日本にやってきた日、わたしは美術館で3年ぶりの作品と目を合わせた。そっちはどう?わたしは毎日お酒を飲んで、なんでもないつもりで生きているよ。そっちはどう?いまだに木漏れ日は眩しい?波の音は変わりない?会いたいひとには会えたの?3年ぶりだというのに、作品のなかの少女はあのときと変わらずにボートを漕いでいる。カランコロン。美術館のなかに夏の音がなる。はずかしくなってすり足。夏のなにが恥ずかしいというの?やはりカランコロン、足音は夏の音ではなくてただ、わたしの音だった。
Kが日本にやってきた日、わたしはいつもよりはやく帰って家でビールを飲んでいた。ただそんな程度のことなのだ。生活はつづく。心地よくないリズムすら聴き続ければ耳に馴染む。

K。彼はわたしの人生を導くひと。
ソウルの冬の街路をつめたい自転車で駆ける。信号を待つときには住んだ空を見て、星の数を数えながら、億千の言葉を張り巡らせる。
K。わたしという星座のなかで欠点こそ最もひかる星だ、と言った。
彼を知ってからわたしは空を見上げる意味を考えている。今日だってKとわたしは同じ空の下にいるというのに、どうやったってかなわない。彼の心には辿り着けない。美しく、傷だらけだ。

はたちのふゆ。Kを見つけたとき。わたしは生き急いでいた。転んだら、怪我をしたら、絆創膏を貼らなくちゃならないのにわたしは海まで走っていった。塩水が染みて痛いのにやめられない。生きていくことよりも、生きるためにもがくことばかり必死になった。空を見上げることもなく、踏みしめる度に音の鳴る雪の道がこわくて仕方なかった。わざとハイヒールで雪道をあるく。つま先はとっくに冷凍されていて、人というより食材みたいな身体。美しくない死体になりたいと、あの頃は願っていた。
正気になれば空を飛んでしまいそうだったから、いつもお酒を飲んだ。楽しいことしか起こらない人生だと語っては、階段を飛び降りたときの足の痣はおじさんには見せたくなかった。買ってもらったシャインマスカットをかみ潰す度、溢れる果汁を吐き出したかった。

そんな季節にKが現れた。すきだった音楽も映画もなにもわたしには届かなくなっていて、まわる天井を主食に生きていたわたしのもと。Kは雪と一緒に降りてきた。

生きるには言葉が必要だった。ずっと忘れていたこと。Kは簡単に思い出させた。知性は熱を持ち、旋律とビートの中で奇跡をつくる。なにもきこえない耳にも少しずつ音が見えてきて、だから久しぶりにお酒を飲まずに夜は眠った。そんなことなのだ。

人生を導くひと。わたしはお姫様にはならない。宇宙飛行士にもならないし、政治家にもならないだろう。そんな大それたことじゃない。宝くじも当たらないし、鼻は高くならないし、部屋も広くならない。だけど、わたしの人生はそんなことで満たされたりしない。足りないところに何があったか、何でできた穴なのか、元からあったものを失って穴になったのか、もともと穴だったのか。人生に対する絶望感も願望も、何から生じたものなのか。ぐるぐると考えて、そしてわかる。

人生を導くひと。今日、Kが日本にやってきた。たったそれだけのこと。悲しいことがないように生きていたい訳じゃあない。傷のない身体には憧れない。死んでしまいそうな心に身体が抗うあの感覚はすき。だから、K。点つなぎのようにふちどりを描いて、この夜のことを覚えていてほしい。わたしはたしかにおなじ時代を生きている。一度目の人生だ。今世が終わる時、何を覚えていられるかなんて気にせずに今のことをおもう。どうせ眠れば忘れるだろうから。K。人生を導くひと。あなたはわたしを海の深いところから泥も一緒にすくい上げた。その大きく分厚い手のひらで、わたしにまとわりつく砂や泥も一緒に。ただわたしだけが美しくなればいいだけじゃあないことを教えてくれた。
わたしが持っているかなしみのリズムも、失ってはならない大切なもの。KがKで、わたしがわたしだ。同じ空のしたで、ちがう色の星を見つめている。正しいことや間違ったことをたくさん語り合ったあと、前にも後ろにも進まないバスに隠れて朝を待とう。バラバラでいいんだ、わたしたちはみんな。
幸にも不幸にも身体には外壁がある。光で出来た命じゃあないから、わたしたちはみんな、バラバラでいいんだ。感情には境目がないのに身体には境目があって、そんなことが時々無性にかなしいけど、K。

Kがやってきた。たったそれだけのことをあまりにもよろこんで生きている。

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