海外に行って、少しだけわかった仕組みと実態と自分

巷に溢れる、外国人観光客が日本を称賛する動画や番組。

演出とかでなければ、言わされているのではなく彼らの口から出ている言葉なのは間違いないだろう。

実際、日本ほど安全にリーズナブルで楽しめる国は無いとは思う。いかなる行動をするにも、まずは地が固まっていないとおちおち楽しめない。常に財布を入れたカバンを心配するような旅はしたくないものだ。

先日韓国に旅行したのだが、どうしてそのような称賛を受けやすいのか少し仕組みが分かった気がした。

異国の地にいるのである。現地の人は自分の国の言語圏ではない人間にすぐ気づくだろう。そんな聞き耳を立てられているところに、嫌な印象を持たれたら何をされるかわからない。言葉がわかるまいと日本語で貶しても、もし誰か知っている人がいたら?

そんな状況であれば、「この飯うまい!」ぐらいの軽い称賛すら、オーバーリアクションで言いがちなのは想像に難くないだろう。まあ実際大体の飯が旨かったのだが、店員さんや周りの客に気づかれる程度に、喜んでいるようなフリをしてしまう。いわゆるサービス精神というやつだ。

私にも現地人のマイクを向けられたら、直前にいやな目に遭っていようと迷わずこう言うだろう。「ここは素晴らしい国だ」と。

それは、一応パスポートの信用度的な立場が高い日本代表として、寛容度の高さを示したいという面もある。見事なサービスだった、と上から目線ながら称賛の言葉もかけてみたくなるものだ。わざわざ異国の地にお邪魔しておいて、その場でダメ出しをするような狭量な人間には見られたくない。

しかし何よりも、変に逆上させてとんでもない目に逢う意味はないのだ。リップサービスぐらい、少しは盛っても良いものだろう。

日本の地でインタビューされる外国人たちはどうだろうか。我々からしたら、そんな気を使わなくても変なことをする日本人はいないと言いたいところだが、彼らのプライドもある。わざわざ長旅で日本に来てくれているのである。ちょっとした寛容な王様気分を出したいのも、わからなくもない。

それで、韓国はどうだったかと言うと。

大声で日本語をぺちゃくちゃ喋らないように、現地人に紛れる形で小声で会話していた。知っている韓国語の単語も織り交ぜつつだ。日本に悪感情を持つ人間もいるだろう、わざわざ煽る必要はない。ご飯が旨いと、少しぐらいオーバーな称賛を入れつつ、自分は敵ではないという意思を示し続けていた。それに当然外国の地だ、被害に遭わないように身の回りにも警戒は怠らなかった。

そこまでして何が楽しいのかと思われるかもしれないが、やはり現地の空気や生活を感じるのは、自分らしく生きる上でも重要だ。

ネットだけで知った気になるのはいささか狭量がすぎる。ネチズンのご高説によると、韓国では反日思想に溢れ、日本人とわかるだけで差別され、経済崩壊寸前で空気も最悪とのことだった。

相手の「イルボン」(日本)という言葉を聞くたびに体が強張ったのだが、外国人とわかったところで何か不利なことをされたことは無かった。もちろん、たまたま良い人だっただけなのかもしれないが。お釣りを間違えたから返金すると、わざわざスマホの翻訳機能で伝えてくれた店員さんもいた。「ごめんなさい」という文面から始まっていたのがかなり印象的であった。

ぼーっと見ていた、読めないハングルの映像。海外旅行の宣伝のようだが、普通に日本も列席されていた。また知人によると、日本人のある女の子が歌謡番組で大人気だそうだ。そこかしこにセブンイレブンがあり、日本の商品も普通に売られている。

遠目で見ている限り、観光地には外国人の群れと韓国人カップルでごった返し、日本語はたまに飛んでくる程度であった。繁華街は賑わっているし、少し郊外に出ると農地で作業するご老人たち。スタバでPCを広げる若者たち。ちょっとガサツな中年たち。日本とさほど変わらない映像だ。彼らには彼らの、オーディナリーな生活があるのだ。実態を少しでも感じられたのが何よりも収穫だった。

当然、旅行だけでは見えない部分も多いだろう。目にしていなかっただけで、排斥的な抗議運動はあるのだろう。でもそれは日本でもたまに活動家を目にすることと同じだ。所詮一部の話であり、全体ではない。

やはり見てみないとわからない部分も多いものだ。知ったかぶりで生きるのは、私にとっては辛い。自分以外の外国を直に体験してこそ、自分を見つめなおす部分も出てくる。今回特に感じたのは、いかにネットの断片的な情報に踊らされるのが愚かかということであった。

信用に足るのは、経験をしている人間のみである。ネットの海に漂うゴミクズのような大人より、アクティブに海を飛び回る子供のほうが遥かに人として知見に優れているのだ。なぜこんな当たり前のことに気づかなかったのだろう。少しだけ、脱皮できた気がした。