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#17 現在人から推敲人へ

 僕たちが失敗してしまうのは、時に僕たちが忘れゆく種族だからかもしれない。バイトのシフトを忘れ、待ち合わせを忘れ、布団を干したままにしている、悲しき忘却のシモベ。そういう時、少なくとも僕は、というか多くの人はそうだと思うのだが、外部に記憶装置を作る。それは朝にけたたましく響くスマホのアラームであり、買い物を書いたメモであり、こうして自分の思うことを綴ることである。

 書くことは、多かれ少なかれ自分自身を複製することに他ならない、と思う。自分の思考を、方向を、感覚を複写し、フラッシュライトで照らされた一瞬の虚像のように、テキストとして焼き付ける行為。現在の自分自身を定義する、あるいは書くことによって現在の自分を成立させようとすることである。

 思うこと。それは、推敲についてである。中学校で「守株」とか「塞翁が馬」とかと習った古事成語としての記憶が、最近新しい認識に変わってきた。推敲することは、すなわち自分を問い直すということだ。書くことによって定義されたその時の自分を見つめ直し、アップデートしようとすることだ。書くという行為、忘却へ抵抗しようともがきながらただ懸命に時間の中を走る「現在人」から、それ自体を俯瞰し、自分を新たな未来へ置き換える「推敲人」への可能性を、僕はなんとなく見出した。


 かといって、僕は推敲という行為がすごく苦手です。同じ本を二度読むとか、同じ情報を二回インプットするのがなかなかキツいんだこれが。ここを乗り越えて、僕はアタラシイ地平に至ろう、と心に刻んでいます。いつかこの文章を読んでいる僕がいれば、その時は、甘いものでも買って自分を労ってください。過去の僕より、愛をこめて。