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《祈る者》たち

 新入社員のくせに、11連休を作って神戸へ帰省する。およそ20年過ごした郷里は再開発などで表面的に少しずつ変わりながら、それでも海風の薫りと、のんびりした陽光の感じがある。気付くと父母はもう高齢者と括られる年齢で、かくも流れゆく時をいかに感じずにここまで来てしまったかということに今更悔悛したくもなる。
 
 夕暮れに砂浜を歩く。明石海峡大橋のふもとには、夏は海水浴でにぎわうビーチがある。さすがに月曜ともなると人もまばらで、規則的に波打つ静かな響きが、空へ還っていく。波濤の音はどうしてかこんなに、生物的な響きを持つのだろうか。

 歩くことは、思考することである。人間は考える葦であり、脚は人間に考えるだけのpaceを与える。仕事のことを考える。仕事というより、それは労働と言った方が正しい。アーレントの定義にも照らし合わせ、私の今の業務は、「意味を生まない」ものだと確認する。

 今の仕事は、自分が望んでしていることで、非常に素晴らしい仕事だと思っているが、自分のできないこと、そして、自分の仕事が簡単かつ誰にでもできるものであることへ、ストレスがある。加えて、同じチームの先輩はとてもではないが、教育上手とは言えない。その人の存在がストレスになるほど、つらいと感じるときもある。

 他者、という存在。それに期待すると、手痛く裏切られ、それに頼ると、寄りかかった重みだけ、たやすく崩される。自分が。この数年は、そうした他者にきっちり絶望する時間だった。わかりあえないことを確認し、他者に自分の欲望を投影することの浅ましさを自らに傷をつけながら知って行った。使い古された「自分のこともわからないのに、他人を知ろうと思うな」とか、吐き気がするけど本当にそうなんだ、と思った。反吐が出るほど、わからねえ、と思い続けた。そしてかように無関心な、薄ら寒い人間が出来ていた―。

 そんな最近の思惟を思い返しながら、なんとなく眼を逸らすように対岸の淡路島に目を向けようとすると、ぽつり。浜辺に佇んでいる影がある。それも、一人ではない。ぽつり、ぽつり。

 釣り人だろうか。ほの暗い宵闇には、その影たちから伸びているであろう細い竿と糸は見えない。みな、地平線のほうに顔を向け、立っている。佇立していると言った方がいいかもしれない。まるで樹木のように、ひたむきに立っている。

 《祈る者》という単語が浮かんでくる。彼らは、ひとしく海と向かい合い、何かをしている。期待しているのかもしれない、泣いているのかもしれない、待っているのかもしれない、あるいは、そこにはいないのかもしれない。ひたむきに両の足で立ちながら、消えて行く陽が最後にまっすぐに影を伸ばしてゆく時間を見ていた。

 《祈る者》たちは、影そのものとしてそこに居た。肖像はなく、ただ海を見つめ、他者としてそこに居た。自分ではない、立っている者、という最低限の条件でそこに居る。おじさんでも、乙女でも、もしかしたら知り合いだったかもしれないし、あのとき嫌いだったあいつかもしれない。他者というのはそれでよいものなのだ。〈誰であれかまわない者〉としての他者を想う。それは無関心ではなく、あるがままを受け入れながら、自分の内側を醸成しようとする一種の態度だ。
 
 啓示として《祈る者》の影像を受け取り、しばらく浜辺に佇むと、海のない内陸で働くさもしさが湧き起こってくる。それでももうひと踏ん張り、両足で立ち、私は際限ない労働の都市からこの海を見つめていよう。残照の空の、透明な光輝を、きっと忘れないように。