見出し画像

#19 破壊?或いは、喪失。

コーヒーは薄くて、味がなかった。コーヒーは実体としてではなく、記号としてそこにあった。                         ―村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』(2000,新潮社)

 このコーヒー、味うっす!っと僕がこぼす。その横で村上春樹が、非常に難しい顔で、珈琲を形容している。僕は僕の愚直なfoolを反省する。

 僕はコーヒーが飲めないけど、薄い飲み物というのはいつだって少し悲しい。この文章を見た時、「あぁ、村上春樹的文体だな」と思うと同時に、「こういうの、わかるな」と感応した。コーヒーが薄いという事実を主観的に感情に結びつけるんじゃなくて、客観的に記号として読者に捉えさせることで、小説の視点にかかわる俯瞰を、ここに設置する。こんなに短い文章で、村上春樹は、小説のスタンスを伝える。

 短歌や俳句、コピーや広告は、短いセンテンス或いは印象でオーディエンスを感動させなければならない。いっぽうで小説は、しっかりとした世界を構築しながら、描くものと描かないものを設定して、そして読ませる仕掛けを設定して、印象というよりも想像力へと訴えかけなければならない。これは至難だ。  

 しかし、この小説という枠は、僕の経験から培われた知識である。『トリストラム・シャンディ』というとんでもない小説があって、これは物語の内容もなく、筋もなく、膨大な文章による破壊行為のような、非常に不合理な文章の集合体である。これを読んだ人が痛感するのは、今まで読んできた小説に当てはまらない、という小説という「枠」がいかに強く自分の中に形成されているかという事実だ。

 抽象的に考えると、破壊は、或いは喪失は自己のうちに認識を見出す手段であると言える。マルセル・デュシャンは美術館に男性用小便器を「泉」と名づけて展示した。ダダイズムと称される芸術上の破壊行為。これはともすれば最も創造的な行為といえるかもしれない。焦土から新芽が立ちあがるように、思いもしないような暗闇から、眩い何者かが姿を現すかもしれない。

 村上春樹の小説の主題は「喪失と再生」であると言われている。喪失と再生、破壊と創造というのは紋切型の二項対立だが、それは一種の理みたいなものだと思う。僕は何ものも喪失していないような気持にとらわれる。何者も破壊できない、喪失できない、そこには閉塞と悲愁が厚い積乱雲のように弾力を持ってふさがっている。

 僕を脱出するために、僕は僕以外の何ものかを徹底的に破壊し、或いは喪失しなくてはならない。それは味のないコーヒーを、自らの感性の反応/麻痺ではなく、記号として捉えさせるような、地味で、それでいて劇的な変化である。