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書評

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読書記録、しっかりした書評からメモ程度まで形式は統一していません。ネタバレ多。
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#小説

闘争としての恋愛の極北―石原慎太郎「太陽の季節」

 新潮文庫の裏表紙の紹介文はこのように評している。1955年、石原慎太郎が一橋大学在学中に執筆した本作は、新世代の若者のメルクマールとして迎えられた。奔放な戦後青年像は当時の選評も二分し、「攻撃的」「快楽主義的」な表層的な印象から「太陽族」という流行語も生まれた。 という有名な書き出しから物語は始まる。結論から一言で言えばここで描かれるのは、恋愛に形を借りたファム・ファタール(宿敵)=英子との闘争だ。恋はそのまま拳闘に重ねられ、それは効果的に作中に持ち込まれる。  主人公

生の擁護者

 失うことの痛み。過去という痛苦。「時」はそれを無暗に癒やしてしまうのだろうか。そして、その治癒は果たして「正しい」のだろうか。  漱石の「硝子戸の中」(1915連載)に興味深い述懐が眼を惹いた。それは或る女の悲痛な生きるのもつらい、という恋愛の記憶を聞く場面。語り手は「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」という言葉を思いつくも、それを引っ込める。現代から見てもその解決策はあまりにも投げやりで、相手を無暗に傷つける。この特異な二項対立、生きるか死ぬか、という使い古

[読録] 大江健三郎「セヴンティーン」

 十七歳の若い内面と、そこから見つめられる世界についてこの作品は徹頭徹尾描いている。「独りぼっちで不安で、柔らかい甲羅に脱ぎかえたばかりの蟹のように傷つきやすく、無力」な十七歳という時間と存在が語るのは、《右》という強い言葉によっての定型思考方式に見出される、行き場のない自意識の救済である。自分に無関心な父母と兄弟、自宅の物置小屋で自瀆する少年は、学校でも当然のように浮いている。日々が孤独と不安を育む。  そこに《右》の演説のサクラをするという仕事を受けるわけだが、《右》の

[書評]ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』

 書いている人の存在が感じられる文章が好きだ。私たちを読み手として認め、ときに立ちどまり懊悩しながら書く人のことを想うと、こちらも読者として誠実に付き合わなければならないことを思い出せる。端的に言えば、これはそういう小説だ。  ナチス・ドイツで一番危険な男、《金髪の野獣》ハイドリヒを襲撃する〈類人猿作戦〉へと集約するために、歴史的背景を丹念に追い、関係する一人一人の動きを追い、物語を作る。襲撃されるに至るハイドリヒの出世の生涯と性向、襲撃するパラシュート部隊のガブチークとク

[読録]九段理江「Schoolgirl」

 読んだのは『文學界』2021.12所収のもの。環境問題に「目覚め」た我が子と、小説を読み耽った青春時代を持つ母親。母娘の間の分断が、思わぬ補助線によって溶かされ―。所謂Z世代の偏重姿勢がやや誇張的だが、「女生徒」がちょうど母娘の中間に位置すると考える構造がおもしろい。母と娘という関係を自己と他者に遡及させるところが良かった。  この作品は芥川賞候補作でもあり、その選評が一部ネットでも見られるようになっている。そこでこの作品を高く評価しているのは、オジサン三人で、小川洋子、

[読録]有島武郎「小さき者へ」

子を想う父の肖像が浮かび上がる、「小さき者へ」という作品は、妻を失った夫として、子を持つ父としての覚悟が綴られる。それは子が成人してから読む想定で描かれた夜想である。  物心つかない子へ語るということを考える。時間が沸き立ち、考えるでなく一時的経験の連続の中で生きる子という存在に対しては、親はたじろぎながら、傷つきながら愛することしか能わずという感じである。というか、それ故にこうした迂路を通りながら父の愛は伝達されなければならなかったのだ。 他人と暮らす、ということの意味

[読録]『しんせかい』山下澄人

小説とは、作家による現実の経験の再現である、という当たり前に見える事実。けれどもこれこそが、私たちが小説を読む理由の本質を穿っている。私たちは他人の人生、経験へと入り込み、肉体と意識を借りる。  『しんせかい』。ここで私たちが目撃することになるのは、忘れながら、考えながら言葉を紡ぎ出す語り手のリズムだ。喋っているひとの声の間、思考の感覚が改行に現れ、飛び跳ねるように、戯曲のように言葉が紡がれていく。そして、それはわたしたちに、私たちが考えるリズムと似ている、というリアルさを意