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3人の"日本人"と1人の台湾人の話

 すきえんてぃあ(@cicada3301_kig)さんという方が宜蘭クレオールについてツイートをしていて、それに書いたコメントからあれこれ思い出したので軽くまとめておいくのもいいだろうと言うことで書く。

 この記事で書こうと思っているのは俗に言う銀髪族、日本統治下で日本語を学んだ世代の"日本人"の話だ。ただ、このエピソード自体にオチはない。雑多な書き散らしである。

余談

 私が留学していた頃…と言っても、2006年だからもう15年も前になるのだけど…そのころの日本における台湾の認知度なんてのは、大変に低い時代でした。有名人といえばテレサ・テン、ジュディ・オング、ビビアン・スーか、インリン・オブ・ジョイトイ。台湾マニア女子がF4の出ていた流星花園とかターンレフト・ターンライトにお熱だった時代。一部界隈でMVの可愛さに火が付いていたシンディ・ワンの名曲ハニハニが出た頃の話。

 一応MRTは赤(淡水から碧潭まで)・青・茶色は開通していた。(当時、路線名は色で、茶色以外は色名でした。茶色は木柵線と言ってたし)

公館の老夫婦

 さて、余談が長くなってしまったが、本題に入ることにしよう。台北北部某山の霧深い仙境で猿と共同生活をしながら中国語を学んでいた僕ら留学生はある日、よくつるんでいたジャイアン系台湾人の呉さんに連れられて火鍋を食べに行くことになった。

 場所は公館。台湾大学のある辺りである。今でもその火鍋チェーン店は現存している。ハーゲンダッツも食べ放題で500元前後したと思う。貧乏学生的には結構な出費だったのだが…(実は今だって結構ためらう金額だと思う)スマホ自体がない時代。予約もしなかったせいで店外の椅子に座って待つことに。

 おばあちゃんが店員と何事か話していて、私の隣(列の前側)に座った。当初は気にも止めず、留学生は日本語で話していたのだけど、「あなた日本人?」と中国語で声をかられた。初の銀髪族である。他の留学生はうわーみたいな反応で遠巻きに見ていたのだけど、あれこれと自分の身上話?的なものを言っているうちにおじいちゃんが来た。おばあちゃんは台湾語らしき言語で大まかに私のことを話しているようだ。話し終わるとおじちゃんが一言。

「わしぃ、マンダリン話せんからのぅ」と綺麗な日本語で話してきたのだ。

 話を聞くと、どうやら子供や孫と飯を食べに来たのだけど、若者向けは口に合わないんだけど仕方ないんだよね。でも足も痛くなったので、一言言って休ませてもらったのだよという。

 しかしてまもなくその子供や孫が来てしまったのでそこで会話は打ち切り。大した話もせずに別れてしまった。手を握って歩くあの二人の背中はなかなか忘れることができない。

牛肉麺屋の老婆

 留学生活も終盤。授業も終わり仲のいい連中で台湾一周旅行へ行くことにした。タイヤル族発祥の地?で有名な南澳での話だ。はっきり行ってド辺鄙など田舎だ。農業では食えず、田んぼでエビの養殖を始めた農家が多いため、黒いゴムシートで覆われた景色が続く。それでも3年に一度ぐらいしか黒字にならないとタクシーの運転手は言っていたと思う。

 だが、そもそもそのタクシーからして怪しいのだ。片腕のないおばちゃんが、台北市とステンシルされたナンバーのない黄色い車で運転しているのだから。駅前でも7時ぐらいには真っ暗になるから、晩飯はさっさと食べなさいと言われた。

 東部の日暮れは早い。日もとっぷりと暮れた頃、僕らはどうにかして一軒の牛肉麺屋を見つけて入った。中は薄暗く、客はスキンヘッドに膝丈パンツのおっさんと服を着たおっさん2-3人が高粱酒を飲みながら大声で話す一組だけ。失敗したかな?と思いながらも他に店もないので席につく。

 店主のおばあちゃんはこちらが日本人だとわかると声をかけてきた。国民学校へ行っていたとおばあちゃんは話してくれた。だけどあまり流暢ではなかったみたいでうまくコミュニケーションはとれなかった。今思うとかなり悔しい。

雑貨店の女店主

 一周旅行、南澳から台東へ、そこから緑島へ行った。当時の写真が結構失われており、記憶がややあやふやだ。台東駅前は何もない。軍事施設が多い場所だし仕方がないのだけども。そこから緑島へはバスと船を乗り継いでいくのだ。そこでの話は別の機会で書くとしよう。

 問題は帰路である。緑島からの船が台東の埠頭に着いて降りる。バスで駅まで戻るのだが、バス停は雑貨屋の前。当時、緑島に行くような日本人などほぼほぼ皆無だったと思うのだけど、店の女店主があんたら日本人?と日本語で声をかけてきた。不思議に思って日本語話せるの?と聞いたら、「ここで日本語話せなかったら仕事できないわよ」と返された。だが、あまり話も弾まず、僕らはバスに乗り込んだ。

 後で知った話なのだけど、複数いる東部原住民の間ではリンガ・フランカ(「共通語」や「通商語」)が日本語だったのだ。

もうあれから15年。公館で出会った老夫婦でさえ当時86歳だったし、牛肉麺屋の老婆も70代前後だっただろうから、すでにお迎えが来ていたもおかしくない。もうちょっとコミュ力高かったらなぁ…と思っても後悔先に立たず。

お目汚し失礼いたしました。

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